昔、吉原に石名という遊女がいた。石名はもとは仙台藩の下級武士の家に生まれたが、実家は伊達騒動に巻き込まれ没落したものと思われる。石名は実家の窮乏を救うため吉原に身を沈めた。

持って生まれた美貌だけではなく、その教養の深さ、そしてなによりも心根が優しく、先輩の遊女や男衆、楼主からも可愛がられた。もちろん客たちの人気も高く、吉原で名妓として全盛を極めた。しかし花の命は短く、石名も若くして肺病を患い、ついに病の床につくようになった。

それまで、多くの男たちが石名に入れあげ、石名はときおりそれとなく諭しもしていた。しかし、それでも財を失い没落していったものも多く、石名はそのことに常日頃心を痛めていた。石名は故郷の仙台から肌身離さず持っていた守り持仏の観音像に、その罪深さを思い、自分の命を永らえることではなく、没落していった者たちのその後の幸せを祈っていた。

多くの後輩の遊女たちや楼主らの見守る危篤の床で、石名は、「自分の墓石は、常に人に踏みつけられるように、故郷の坂の近くの小川の橋としてほしい」と遺言して亡くなった。

石名の没後、明暦年間(1655~58)の頃、吉原の遊女や、楼主、茶屋などが追善のために、仙台の石名の故郷を訪ね、遺言の石橋を懸け、近くの円福寺に大般若経六百巻を送ったと伝えられている。その後、奥州街道から円福寺にいたる小さい坂は、誰云うともなく「石名坂」と呼ばれるようになった。

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