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弘前には、辻ごとに明治の洋風建築があると言っても過言ではない。それらは町の中心にある弘前城とあいまり、この町を格調の高いものにしており、それらは郷土愛や地域文化のプライドを醸造しているに違いない。

私の住んでいる仙台は、都市化の波と「経済効果」やらで、仙台城址にはけばけばしい土産物屋が立ち並び、町中の古いものはどんどん取り壊され、その代わりに安造りの建物が建てられ、下卑た小東京に成り果てている。そのような中で、地域のプライドなど生まれるはずもなく、人材の多くは首都圏へと流出していく。

この日は、30箇所程の弘前市街地内の予定箇所の全制覇を目的にしており、いい加減な私も「綿密な?」計画を立てざるを得なかった。カーナビの予定個所を登録しているマップを表示しっぱなしにしたまま、朝の5時からまわりはじめた。渋滞する8時頃までが勝負になる。

なにせ、ほとんど四辻ごとに訪問箇所があり、その多くは明治建築であり、城址などとは違い、写真を撮るのに短時間ですむ。中には内部を公開しているような所もあったが、朝早くの日の出からの取材では、内部までじっくり観るようなことはできず心残りではある。また、どの建物も、その周辺状況や天候などを勘案し、もっとも適切な撮影時間があるとは思うのだが、仕事の合間に巡る旅だ、贅沢は言ってられない。本当にすばらしい写真は地元の方にお任せしよう。

どの建物も大切に手入れされており、古臭さはまるで感じない。むしろ新しい建物を圧倒するような威厳すら感じる。この地には、かつてはこのような建物を建造することができる経済力と高い文化があった。今も、中央とは一線を画した独特の文化を持ち、多くの人々を魅了してはいるが、経済的には他の地方都市と同じく、その富は中央に吸い上げられてしまっている。

仙台にもかつては明治や大正期の建物はそれなりにあったはずだが、その多くは、太平洋戦争末期の空襲で損なわれた。それは仕方がないにしても、かろうじて残った建物や町並みまで取り壊され整理され、その跡には、安づくりの今風のミュージアムや、中にはパチンコ屋などが建てられた。新しく得たものと、失われたものを計りにかければ、失われたものがはるかに大きいと私には思われる。

弘前の明治建築には、教会建築もまた多くある。これは、江戸時代の初期に、西国大名の宇喜田家中や上方の切支丹たちが津軽の地に流されて来た事と無関係ではないだろう。津軽二代藩主の津軽信牧も切支丹だったという説もあり、津軽における切支丹大弾圧は、津軽藩に対する幕府の踏み絵的な要素もあったのだろう。

江戸時代初期には、比較的切支丹に対して寛容だった仙台藩や津軽藩に切支丹が多く流れ着いたが、その後の一段と厳しい弾圧の中で、秋田藩や南部藩や蝦夷地の金山労働者として逃れ身を潜めたようだ。津軽ではそれが明治期に入り切支丹禁令が解かれると、堰を切ったように面に現れたものだろう。

後日、この日に訪れることができなかった弘前カトリック教会を訪ねた。教会の隣は幼稚園になっており、教会の扉は開いたままだ。この教会の祭壇は、オランダの聖トマス教会にあったもので、1866年に作成され、ベルギーの展覧会で最優秀賞を得たゴシック様式の芸術品だ。

その祭壇を撮影させてもらおうと、事務所を探したが見当たらない。すると扉のところになんと「ご自由にお入り下さい」と書いてある。恐る恐る中に入る。それでも撮影の許可をいただけるかどうか聞かなければと思っていると、なんと「撮影はご自由にどうぞ」と書いてある。

このせちがらい世の中になんと鷹揚なことか。東京近辺や、いや仙台周辺でも、神社やお寺が窃盗に会う、あるいはいたずらされるなどということが日常のことになっている。どこか社会が精神的に崩壊しかかっているなか、この鷹揚さは嬉しいのと同時に、これで大丈夫なのか心配になった。

ご好意に甘えさせていただいて、この教会のすばらしい祭壇を撮影させていただいた。撮影を終えて、お礼を言うのにも誰もいない。私はクリスチャンではないので祈りも知らない。見学者リストに名前とともにお礼の言葉を書き、祭壇に向かい深々と礼をし、この教会の善意に対して悪意で返すものが無い様に心の中で祈った。

弘前では、弘前城の桜は全国的にも有名だが、それとともに、訪れる方々には、明治建築はもちろん、この地に今も残る、都会では忘れられた「日本の心」を見つけてほしいものだ。

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