2021/03/11

気仙沼をあとにし、国道45号線を陸前高田市に向かって北上した。陸前高田市は、大震災の1ヶ月ほど前に、旧道の駅の太鼓館で練習していた「氷上太鼓」の練習を撮影し録音させていただいた。その1ヶ月後の3・11大震災の夜、ロウソクの明かりの中で、携帯ラジオのニュースでは、原発事故のニュースとともに、「陸前高田市壊滅」の衝撃的なニュースが流れ、身体が震えた。

その後、氷上太鼓のメンバーの何人かが波にのまれ帰らぬ人となったことを知り、さらに奇跡の一本松のことを知り、最初の慰霊の地として訪れた。もちろん何かできるわけでもなく、瓦礫の原に手を合わせ、胸がつぶれるような思いで、亡くなった方々の冥福を祈ることしかできなかった。

震災から丸10年目のこの日、復興祈念公園にはメディアの方々が多く詰めていたが、コロナ禍の中でもあり、イベントは簡素に行われるようで、メディアの方々も手持無沙汰のようだった。高台に移転したこの地の住民の方々は、10年前と同様に、枯死しモニュメントになった奇跡の一本松を臨み、犠牲者の冥福を祈っているように私には思えた。

かつては高田の松原が広がっていた海岸に向かって歩いた。この日は静かに光っている海はあの日は荒れ狂い、一瞬にして数万本の松原をなぎ倒し、市街地のほとんどを飲み込んだ。堤防を上り、海の見える献花台で手を合わせ犠牲者の冥福を祈った。

かつては瓦礫の野だった市街地のあとに、たった一つ、3階建の鉄筋コンクリート建ての建物が残されていた。大津波は建物の屋上まで飲み込み、ご主人は煙突に登りすがりついたまま一昼夜を過ごし、奇跡的に助かった。この建物の周囲でも、多くの方々が生きようともがいたはずだ。しかし大津波は、この地の善意も悪意もすべて飲み込み、たったひとつ、この建物の煙突の先だけを見落としたようだ。

陸前高田市の住民の多くは、高台に移転したようで、広大な市街地跡は、今は更地になっている。しかし山際の少し高い地に、この地の中心になるのかもしれない新しい希望の街路ができていた。

陸前高田市から宮古市へ向かった。途中、釜石市や大槌町など気になっているところが多くあるのだが、時間の関係もあり、国道45号線を北上し、ひたすら宮古市の浄土ヶ浜に向かった。今回の浄土ヶ浜を最後の地としたのは、浄土ヶ浜は、これからの三陸沿岸観光の、中心的な地となるだろうと考えており、その復興状況を見たかったからだ。

途中、大船渡市も釜石市も大槌町も、心苦しい思いを持ちながらひたすらスルーした。この日は穏やかに晴れていたが、あの日は寒く、夕方には小雪も舞い始め、津波の被害から逃れた方も、暖房もない中、寒さで命を落とした方も多かったはずだ。

宮古に入り、そのまま浄土ヶ浜に向かった。宮古市全体では、500人を超える方々が津波にのまれ、あるいはその後の寒さの中で亡くなった。宮古市内も、陸前高田市と同じく、コロナ渦の中、派手なイベントなどは行われていないようだ。この特別な日を、人々は家でひっそりと犠牲者の冥福を祈ってるのだろう。

浄土ヶ浜に着くと、そこには新しくビジターセンターができており、大きな駐車場が整備されていた。遊歩道はまだ整備中のようだが、それでも主要な部分は接続され、さほどの苦労もせずに海岸へ出た。この日の浄土ヶ浜は、暖かい明るい日差しの中にあった。

白い岩に囲まれた浄土ヶ浜は、震災前と変わらないようにみえた。無数のかもめが、海面を楽しそうに飛び交っている。それはあたかも津波にのまれ、あるいは寒さの中で亡くなった多くの方々の魂が、浄土からかもめに姿を変えて海面を舞っているように私には思えた。二人の老婦人がかもめが舞飛ぶ中、経を唱えている。私も手を合わせ、舞い飛ぶかもめに手を合わせた。