明石内記は、関ヶ原の戦いと、大阪夏の陣で勇名を馳せた明石全登の嫡男、あるいは次男といわれている。 大阪夏の陣には、花十字の旗を掲げ父とともに家康の本陣に突撃を敢行し、家康の心胆をさむからしめ、陣後、徹底した明石狩りが行われた。父とともに熱心なキリシタンで、伊達領に隠れ住んでいた。

当時、仙台藩は、キリシタンには比較的寛容だった。政宗の正室の愛姫も、息女の五郎八姫も熱心な切支丹だったと言われている。家臣にも切支丹であったものが多く、後藤寿庵は、当時の日本を代表する切支丹であった。

岩手県藤沢町殉教資料館展示、切支丹像

政宗自身は、切支丹の教義そのものよりも、彼らがもたらす様々な技術、特に大船建造技術、灌漑技術、医学、そしてなによりも金や銀の精錬技術、そして製鉄技術のために、切支丹禁令が出た後も、比較的切支丹に寛容だったと考えられる。これらの技術は、政宗の秘めた野望のために、欠くべからざるものだったにちがいない。

明石内記が隠れ住んだと言われている伊達領の場所は、気仙郡高田村、竹駒村、江刺郡伊手村などで、高田村を南東の端とし、伊手村を北西端とする、ほぼ20km四方の地には、当時の伊達藩の金山とタタラ場が随所にあり、この地が伊達領での明石内記の活動の場であった と思われる。

この地域のタタラ場は、備中から招聘された、切支丹の千松大八郎、小八郎が西洋の製鉄の技術を持ち込み、切支丹の布教も行っていた地域だった。

1612年には切支丹禁令が出され、1613年には江戸でソテロが捕まり22人が殉教した(ソテロは仙台藩に引き取られた)。1614年には高山右近らがマニラに追放となり、 切支丹に対する弾圧は日増しに強くなっていた。

しかし、伊達領ではその兆しはまだ無く、この地域の近くの水沢福原には、切支丹領主の後藤寿庵がおり、この地には天守堂さえあり、時折ガルバリヨらの神父がミサを行っていたらしい。明石内記をはじめとしたこの地の切支丹たちも、時折水沢福原を訪れていただろう。

この地域の製鉄は、当時全国でも有数で、豊臣も徳川もこの鉄を伊達に供出させており、戦国期の終焉の時期の軍需物資として重要なものであったはずだ。もちろん、伊達にとっても重要な軍需産業で、恐らく政宗は、この地を堺などに匹敵する鉄砲の生産地にしようとしていたのだと思う。明石内記は、捕縛された時は、伊手村で鉄砲の製造をしていたという。

1623年には、徳川幕府からの強い申し入れにより、伊達藩でも切支丹の取り締まりが始まった。伊達政宗はこれに対して、表面的な形だけで納めようとしたと思われる。水沢福原の後藤寿庵に対しては、布教さえしなければ、黙認する旨を伝えたと言われている。そしてそれをも拒否した寿庵に対して、追っ手の片倉重長は、7日の行程を1ヶ月もかけて出向き、後藤寿庵を逃がしたと言う。

そして、どうしても布教の禁止すら拒否し、逃がしきれないガルバリヨ神父ら8名のものが仙台に連れてこられ、広瀬川の水牢で殉教した。これは言わばスケープゴートだったのだろう。政宗はこの時点では、この後の時代で行われる300人を越える処刑などは考えてもいなかっただろう。それは、切支丹に対してのシンパ的な気持ちもあったかもしれないが、なによりも、伊達藩の軍事産業でもある製鉄を守ることだったと思う。

この時期に、政宗や伊達の重役の一部は、切支丹でもあり、大阪の陣の生き残りでもある明石内記が、伊達領北辺の地に隠れ住んでいると言うことを知らなかったはずはないと思う。特に、切支丹であったとも言われている茂庭綱元が知らなかったはずはない。いやむしろ積極的に、明石内記らを中心として、製鉄に関わる者たちを保護していたのではとすら思う。そしてそれは、秘めたる政宗の野望の故であったろう。

岩手県藤沢町切支丹史跡、首実験石

しかし、政宗の野望の終焉とともに、切支丹たちの僅かな、心の中の宗教すらも徹底的に砕かれることになる。

1636年、政宗が没すると、1638年幕府は伊達藩に、明石内記の捕縛を命じてくる。大阪の陣から21年後の、最後の明石狩りだ。そしてこれは、未だ強大な軍事的潜在力を持つ伊達藩への恫喝でもあったろうと思う。

政宗の死後、これに抗う力は伊達には既に無く、あったとしても既に時代はそれを許すものでもないことは明らかだったろう。明石内記は、江戸へ護送される途中、宇都宮で病死したと伝えられる。この翌年、1639年、そして1640年と、この地域の製鉄の中心地の狼河原や大籠を中心とした地で、徹底した切支丹の弾圧が行われ、300人以上の切支丹が殺戮されたと言う。

現在も、大篭の地の旧道には、延々と当時の惨劇が地名として残っている。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です