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岩手県陸前高田市から岩手県奥州市にかけての一帯は、かつては伊達藩領であり、キリシタン史跡や伝承が多く残っている。その中に、大阪夏の陣で勇名を馳せた明石全登の嫡男の明石内記が隠れ住んでいたという話が伝えられている。

明石氏は、赤松氏の末裔とされ、宇喜多氏に臣従し、宇喜多秀家の天正16年(1588)頃には、4万石の知行を得ていた。また秀家の岳父である太閤・豊臣秀吉の直臣としても知行を貰い、併せて10万石取りとなっていた。

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、明石氏は西軍として宇喜多秀家に従って出陣し、宇喜多勢1万7,000のうちの8,000を率いて先鋒を努めた。宇喜多勢は福島正則を相手に善戦したが、小早川秀秋の裏切りをきっかけとして敗戦。宇喜多秀家とも連絡が取れずにそのまま出奔した。

明石全登は熱心なキリシタンで、慶長19年(1614)の大坂の陣では、キリシタンを保護するとしていた豊臣方として参陣した。翌慶長20年(1615)の夏の陣では、道明寺の戦いで後藤基次が突出して戦死した後、明石隊が水野勢、伊達勢を引き受け奮戦した。その後、明石勢は300余名の決死隊を率いて、花十字の旗を掲げ家康の本陣に突撃を敢行し、家康の心胆をさむからしめた。しかし天王寺口で友軍が壊滅したことを知ると、包囲網の一角を突破して戦場を離脱した。

その後、残党狩りが行われ、特に明石一族に対しては「明石狩り」として徹底して行われた。しかし結局その消息はつかめず、明石全登は嫡子内記と共に南蛮に逃亡したなどと取沙汰された。

大坂夏の陣の翌年の元和2年(1616)、徳川家康が没した。しかし豊臣氏はすでになく、加藤清正も黒田如水もすでにないこの当時、徳川の天下を覆せるのは伊達政宗とする考えが裏側では広がっていた。政宗の娘婿の松平忠輝の改易事件の際には、伊達政宗が兵を起こすと考えた豊前小倉の細川忠與などは出陣の準備をしていたほどだった。

当時、仙台藩は、キリシタンには比較的寛容だった。政宗の正室の愛姫も、息女の五郎八姫も熱心な切支丹だったと言われている。家臣にも切支丹であったものが多く、奥州市の福原を領していた後藤寿庵は、当時の日本を代表するキリシタンでもあった。

確かにこの時期の政宗は、天下への野望を捨ててはいなかったと考えられる。政宗は切支丹の教義そのものよりも、彼らがもたらす様々な技術、特に大船建造技術、灌漑技術、医学、そしてなによりも金や銀の精錬技術、そして製鉄技術のために、切支丹禁令が出た後も、比較的切支丹に寛容だったと考えられる。これらの技術は、政宗の秘めた野望のために、欠くべからざるものだったにちがいない。

熱心なキリシタンだった明石内記が、伊達領の北辺の地である岩手県陸前高田市の玉山金山や岩手県奥州市の伊手に、明石内記が隠れ住んだというのは、それなりの必然性があるように思える。

明石内記が隠れ住んだと言われている伊達領の場所の、陸前高田を南東の端とし、奥州市伊手を北西端とする、ほぼ20km四方の地には、当時の伊達藩の金山とタタラ場が随所にあり、この地が伊達領での明石内記の活動の場であった と思われる。この地域のタタラ場は、備中から招聘された、切支丹の千松大八郎、小八郎が西洋の製鉄の技術を持ち込み、切支丹の布教も行っていた地域だった。

慶長17年(1612)に切支丹禁令が出されて以降、切支丹に対する弾圧は日増しに強くなっていた。しかし、伊達領ではその兆しはまだ無く、この地域の近くの水沢福原には、切支丹領主の後藤寿庵がおり、この地には天守堂さえあり、時折ガルバリヨらの神父がミサを行っていたらしい。明石内記をはじめとしたこの地の切支丹たちも、時折水沢福原を訪れていただろう。

この地域の製鉄は、当時全国でも有数で、豊臣も徳川もこの鉄を伊達に供出させており、戦国期の終焉の時期の軍需物資として重要なものであったはずだ。もちろん、伊達にとっても重要な軍需産業で、恐らく政宗は、この地を堺などに匹敵する鉄砲の生産地にしようとしていたのだと思う。明石内記は、捕縛された時は、伊手村で鉄砲の製造をしていたという。

この時期に、政宗や伊達の重役の一部は、切支丹でもあり、大阪の陣の生き残りでもある明石内記が、伊達領北辺の地に隠れ住んでいると言うことを知らなかったはずはないと思う。特に、切支丹であったとも言われている茂庭綱元が知らなかったはずはない。いやむしろ積極的に、明石内記らを中心として、製鉄に関わる者たちを保護していたのではとすら思う。そしてそれは、秘めたる政宗の野望の故であったろう。

元和9年(1623)には、徳川幕府からの強い申し入れにより、伊達藩でも切支丹の取り締まりが始まった。伊達政宗はこれに対して、表面的な形だけで納めようとしたと思われる。水沢福原の後藤寿庵に対しては、布教さえしなければ、黙認する旨を伝えたと言われている。そしてそれをも拒否した寿庵に対して、追っ手の片倉重長は、7日の行程を1ヶ月もかけて出向き、後藤寿庵を逃がしたと言う。

そして、どうしても布教の禁止すら拒否し、逃がしきれないガルバリヨ神父ら8名のものが仙台に連れてこられ、広瀬川の水牢で殉教した。これは言わばスケープゴートだったのだろう。政宗はこの時点では、この後の時代で行われる300人を越える処刑などは考えてもいなかっただろう。それは、切支丹に対してのシンパ的な気持ちもあったかもしれないが、なによりも、伊達藩の軍事産業でもある製鉄を守ることだったと思う。

寛永13年(1636)、伊達政宗が没すると、寛永15年(1638)、幕府は伊達藩に、明石内記の捕縛を命じてくる。大阪の陣から21年後の、最後の明石狩りだ。そしてこれは、未だ強大な軍事的潜在力を持つ伊達藩への恫喝でもあったろうと思う。

政宗の死後、これに抗う力は伊達には既に無く、あったとしても既に時代はそれを許すものでもないことは明らかだったろう。明石内記は、江戸へ護送される途中、宇都宮で病死したと伝えられるが、伊達政宗の野望を知る者として、伊達の手の者により抹殺されたのかもしれない。

この翌年の寛永16年(1639)、そして寛永17年と、この地域の製鉄の中心地の狼河原や大籠を中心とした地で、徹底した切支丹の弾圧が行われ、300人以上の切支丹が殺戮されたと言う。現在も、岩手県一関市藤沢の地の旧道には、点々と当時の惨劇が地名として残っている。

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