岩手県盛岡市北山二丁目…聖寿寺

震災前取材

盛岡の聖寿寺には、日露戦争の際に、民間人でありながら特務工作を行い、ハルピンで処刑された横川省三の墓がある。
横川省三は、慶応元年(1865)4月、南部藩士三田村勝衛の次男として盛岡で生まれ、後に和賀の横川家に入籍した。

明治17年(1884)上京し、自由民権運動に携わり、加波山事件により投獄された。その後朝日新聞の新聞記者として、千島列島探検隊の特派員や日清戦争の従軍記者などで活躍したが、その後記者を辞め、アメリカでの農園経営やハワイ移民の斡旋などに携わった。

日露戦争開戦時には、駐清公使内田康哉の私設秘書をつとめていた。内田は陸軍参謀本部の命を受け、ロシア軍の輸送鉄道爆破などの特別任務を行う者達を組織、横川は、その人柄と胆力、実行力を買われ、この任務に班長として携わることになった。

横川は、妻に先立たれ、日本にまだ成人前の娘二人と老母を残していたが、この特別任務への参加を打診されるや、即座に承諾したと云う。横川の班は、大興安嶺山脈の北端を東西に横切る東清鉄道の、トンネル、陸橋などの爆破であった。シベリア鉄道、東清鉄道は、アジアに展開するロシア軍の補給線で、これを寸断することには、極めて重大な戦略的な意味があった。

全行程約1200km、ラマ僧に変装し人跡稀な満洲の荒野に分け入り、雪中行軍を続け、北京を出て49日目に目指す鉄道の爆破地点に到着した。しかし、爆破の準備中に、ロシア軍警備兵に発見され捕らえられ、横川らは軍事裁判にかけられた。

このとき、横川は日本人であることの誇りを堂々と陳述したと云う。
「ここに武運つたなく捕えられたからには、もとより死は覚悟の上である。日本人にとって死生は論ずるところではない。天皇陛下の御為、お国のためなら女子供にいたるまで生命を惜しむ者など唯の一人もいない。我らはいかなる極刑をも喜んで受ける。しかしながら日本軍の機密に関することは断じて言わぬ」

その日の内に絞首刑の判決が下った。軍人ではないため、捕虜としての待遇は受けられず、間諜としての絞首刑の判決だった。これに対し、横川は異議を申し立てた。それは減刑のためのものではなく、「軍人に対する礼をもって、われらを銃殺にしていただきたい」というものだった。

この堂々たる横川の陳述に感動したのか、判決は銃殺刑に変更され、さらに判決の最終決定者であるロシア軍総司令官のクロパトキン陸軍大将に対して、「死一等を減じ、捕虜として遇せられんことを願う」という付帯意見が付けられた。しかしクロパトキンが下した最終決定は「銃殺刑」であった。

死刑執行の日、横川は、独房を訪れたロシア将校に、日本にいる二人の愛娘宛ての遺書を託した。その遺書の末尾には、「この手紙とともに五百両を送らんとしたが、その金は総て露国の赤十字社に寄付することにした」と書かれていた。

この日処刑される日本人が、大枚の所持金を、故国に待つ愛娘に遺すのではなく、敵国ロシアの赤十字社にすべて寄付したことは、その日の内に広まり、刑場にはロシア軍将兵のほか、英米独仏等列強諸国の観戦武官、各国新聞記者、一般のロシア人などが詰め掛けた。

横川らは、祖国の空に向かい遥拝し、縄を受けることを拒否し刑場に立った。執行官の大尉は、十二名の射撃手に射撃準備を命じてから、少し声を落とし、「愛をもって撃て」と命じたという。横川39歳だった。

横川らの最期の様子が日本に伝えられるのは、死刑執行後しばらくたってからであった。当時、宮中においては、内親王が戦死者を祭壇に祀り、戦死者氏名を記帳しその冥福を祈っていた。あるとき、横川省三らの名を記帳していた時に、肩書きがないことをいぶかしく思われ、理由を尋ねられた。側近の者が横川らの事績、その最期を言上すると、内親王は涙され、しばらく顔を上げなかった。やがて、顔を上げ筆を執り、二人の名の上に「忠君愛国之士」と記されたと云う。

この30年後の昭和9年(1934)、盛岡に住む横川の長女のもとに、一人のシモノフと名乗るロシア人の老人が訪ねてきた。満洲のハルピンにおいて、横川らの死刑執行官を務めた大尉だった。彼はその後、累進して帝政ロシア陸軍の少将にまで進んだが、大正6年(1917)のロシア革命後、社会主義政権とは袂を分かち、日本に亡命していた。

シモノフは、横川の遺児に、涙しながら横川の最期の様子を伝え、「私はあのとき、真の日本武人の姿を見たような気がした」と伝えたという

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