岩手県盛岡市南大通三丁目

震災前取材

米内光政(よないみつまさ)は、連合艦隊司令長官、海軍大臣、第37代内閣総理大臣などを歴任。海軍内の親英米派として山本五十六、井上成美らと三国同盟、日米開戦に反対、最後の海軍大臣として日本を太平洋戦争の終戦へと導くことに貢献した。

明治13年(1880)、旧盛岡藩士の長男として盛岡市に生まれた。家は事業の失敗などで困窮の中にあり、米内は幼少の頃から新聞配達、牛乳配達などをして家計を助けながら、苦学の末、海軍兵学校を卒業した。明治38年(1905)には日露戦争に従軍、大正3年(1914)に海軍大学校を卒業し、第一次世界大戦後のロシアとポーランドに大使館付駐在武官として駐在した。ロシア革命の混乱のなかで冷静に国際情勢を分析し、大戦後のドイツの首府ベルリンでも情報収集の任に当たった。

昭和5年(1930年)には中将となったが、閑職に追いやられ、「島流し」と揶揄された。この時代に読書三昧の日々を過ごし、後の海軍大臣や総理大臣の時期にその博識は大いに役立ち、「いついかなる場合でも、自分の巡り合った境遇を、もっとも意義たらしめることが大切だ」と述懐している。

昭和7年(1932)以後は艦隊司令長官を歴任した。二・二六事件の起こった昭和11年(1936)には横須賀鎮守府司令長官だったが、参謀長の井上成美とともにクーデター部隊を「反乱軍」と断定、制圧の方向で大いに働いた。その後の人事異動で連合艦隊に転出、連合艦隊司令長官兼第一艦隊司令長官に任ぜられ、昭和12年(1937)林内閣で海軍大臣、その後第1次近衛内閣、平沼内閣でも海相を務めた。

平沼内閣時代には山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに、ドイツ、イタリアとの提携に反対し続けた。昭和15年(1940)内閣総理大臣に就任、米内を総理に強く推したのは昭和天皇だったとも云う。この当時は、ドイツはヒトラーのもと、ヨーロッパで破竹の猛進撃を続けており、軍部はもとより、世論も日独伊三国軍事同盟締結待望論が強かった。天皇はそれを憂慮し、良識派の米内を任命したと云う。

しかし、米内内閣は陸軍とはうまく行かず、日独伊三国同盟の締結を要求する陸軍に対し、米内は「我国はドイツのために火中の栗を拾うべきではない」としてこれを拒否した。陸軍は陸軍大臣を辞任させ、後継陸相を出さず、米内内閣は総辞職に追い込まれた。

昭和18年(1943)、ブーゲンビル島で盟友山本五十六連合艦隊司令長官が戦死した。戦局は悪化の一途をたどり、昭和19年(1944)、東條内閣が倒れると、小磯内閣に副総理格として海軍大臣となった。このとき次官に、井上成美、当時海軍兵学校校長を「首に縄をかけて引きずってでも中央に戻す」と直接説得し中央に呼び寄せた。

しかし、昭和20年(1945)3月、米軍の沖縄上陸を許し小磯内閣は倒れた。その後の鈴木貫太郎内閣で、海相として留任となったが、米内は「小磯米内連立内閣」でもあった小磯内閣での責任を考えこれを断る考えでいたが、太平洋戦争終結の道を探る次官の井上成美は、米内の知らないところで「米内海相の留任は絶対に譲れない」とし、鈴木貫太郎や木戸幸一内大臣に強く申し入れ、米内を留任させたという。

米内は、天皇の真意は和平にあると感じ、海相として戦争終結の道を探った。昭和20年(1945)5月末の会議では「一日も早く講和を結ぶべきだ」とし阿南惟幾陸軍大臣と激論し、日本を終戦に導いた。阿南惟幾陸相は、8月14日、終戦の日当日に「米内を斬れ」と言い残して自害したが、米内本人は軍人として法廷で裁かれる道を選んだ。

米内は、戦犯として拘束されることを予期し身辺を整理していたが、結局米内は戦犯には指名されなかった。米軍側は、米内の言動を詳細に調査しており、命を張って日独伊三国同盟と対米戦争に反対した事実、終戦時の動静などから「米内が戦犯になることは絶対にない」としていた。

戦後処理の段階に入っても米内の存在は高く評価され、東久邇内閣、幣原内閣でも海相に留任し、帝国海軍の幕引き役を務めた。戦後の東京裁判では証人として出廷し、「天皇は、開戦に個人的には強く反対していたが、開戦が内閣の一致した結論であった為、やむなく開戦決定を承認した」と、天皇の立場を擁護する発言に終始した。

昭和23年(1948)、肺炎により死去。68歳と1ヵ月だった。