岩手県奥州市前沢区字白鳥舘

2012/09/07取材

 

白鳥館は、北上川の西岸に、半島状に張り出した比高約20mの丘陵上に築かれた。周囲180度以上を北上川で囲まれた天然の要害の地で、10世紀から16世紀まで北上川の要衝地として利用されてきた。城域は、東西約150m、南北約500mほどで、北から南へ、本郭、二ノ郭、三ノ郭を配しており、各郭は空堀で区画され、側面は帯郭がまわされている。主郭の北側は採石により一部破壊を受けている。二ノ郭にはは白鳥神社が祀られ、西側に土塁が見られ、三の郭は住宅地となっている。

平安時代後期に、奥六郡を支配していた安倍頼時によって築かれ、頼時の末子の白鳥八郎行任(則任)の居城と伝えられる。前九年の役で安倍氏が滅亡した後は清原真衡が館を置いていたと伝えられている。

伝承によると平安時代末期には豪族安倍頼時の八男・白鳥八郎則任が居城したとされ、室町時代末期には白鳥氏が居城したと伝えられる。後三年の役当時は清原真衡が館を置いていたとも伝わる。

その後、平泉藤原氏が支配するところとなり、隣接地には川湊が置かれ、館の西麓からは、鍛冶炉跡、素焼きの陶器「かわらけ」を焼いたと推定される遺構、4度建て替えられた掘立柱建物跡、道路の溝跡などが確認されている。また藤原秀衡の棺に納められていた数珠玉に酷似する水晶製とみられる数珠玉も出土し、石製品の製作、加工が行われ、平泉に運ばれたと考えられる。この館は、北上川水運を監視し、管理していたと推測され、奥州藤原氏時代の重要な拠点だったと思われる。

中世初期には山名氏が居城し、中世末期には、葛西氏配下の岩淵氏や白鳥氏が居住したが、天正18年(1590)の奥州仕置により主家の葛西氏が没落し、廃城になったと思われる。

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