岩手県奥州市胆沢区南都田字塚田

2012/09/07取材

 

別名:塚の山、一本杉

角塚(つのづか)古墳は、岩手県では唯一の前方後円墳で、日本の最北端に位置する古墳である。標高約76mの低位段丘上に位置する古墳で、出土埴輪等により5世紀末から6世紀初の築造とされる。日本最北端にあるという特異性により、昭和60年(1985)、国の史跡に指定されている。

岩手県ではこの古墳を除きすべて末期古墳で、約70km南の宮城県の大崎地方まで、前方後円墳等の存在は認められない。角塚古墳の北西2kmにある大集落跡の中半入遺跡の出土物から、この地域の宮城県域や久慈地域などとの広域の交流がうかがえる。

この地には次のような伝説が伝えられる。

この奥州胆沢の地には近郷一番の長者の掃部長者の屋敷があった。掃部長者は、優しい長者様だったが、その妻は強欲で情けと言うことを知らず、何百人もの下男下女を、朝早くから夜遅くまで働かせていた。ある日、一人の下女が井戸で水を汲んでいると、中に赤い魚がまじった。味噌をくるみ焼くと、大層良い香りが漂った。長者の妻がこれを嗅ぎ付け、その赤魚を下女から取り上げ食べてしまった。

その妻は喉が渇き、下女に水を運ばせて飲んだ。しかし喉の渇きは増すばかりで、下女に何度も水を運ばせ、下女は力つきて倒れてしまった。それでも喉の渇きは収まらず、そこで妻は自ら井戸に行き、顔を突っ込んで水を飲み出した。ついには井戸に入り水を飲み続け、大蛇になってしまった。大蛇は村を湖に変え、主となって棲みついた。

この大蛇は、毎年作物を荒らすようになり、年毎に順に女一人を生贄として要求した。数年後、郡司兵衛が一人娘を生贄に出さなければならなくなった。郡司兵衛は考えなやみ、やむなく代わりの娘を買ってくることとし旅に出た。しかし、娘を売る家などそうあるわけもなく、とうとう肥前松浦まで来てしまった。

松浦にはかつて子供がない長者夫婦が住んでいた。長者夫婦は観世音に子供を授けてくれるよう祈願し、ようやく女の子に恵まれ、佐夜姫と名付けた。しかし、その時のお告げでは、子供を授かる代わりに、夫婦のうちのいずれかが子供が4歳の時に亡くなるというものだった。しかし佐夜姫が7歳になっても何事も起こらなかった。その年の春に、花見酒に酔った長者は「佐用姫は4歳を過ぎてもう7歳にもなった、観世音様は嘘をつく仏であるな」とあざけり笑った。ところが間もなく、天罰がくだり長者は病死し家は没落してしまった。

松浦に来た郡司兵衛は、日が暮れ宿もなく、貧しい一軒家を宿に頼んだ。その家こそ、零落した松浦長者の家だった。その家には盲目になった母と佐夜姫が暮らしていた。母娘は信仰に篤く、佐夜姫は母の目が治るように、肌身離さず持っていた守り仏の薬師如来像に日夜手を合わせていた。

郡司兵衛は、この母娘に、遠く松浦まで来た事情を話した。すると佐夜姫は、自分が身代わりになれば、その金で母の暮らしが楽になり、母の目を直せるかもしれないと、郡司兵衛の話を受けるという。母は懸命に止めたが、佐夜はこれも薬師如来のお導きかもしれないと母を説得し、郡司兵衛とともに松浦を離れ胆沢の地に向かった。

郡司兵衛が佐夜姫を連れてこの地に戻りしばらくして、ついに生贄を出さなければならない日が来た。佐夜は尼坂で髪を刈り、化粧坂で化粧をし、道伯森の頂上に四柱を組んだ台の上に静かに座り手を合わせた。するとにわかに嵐が起り、湖から大蛇が表れた。佐夜は守り仏の薬師如来像をとり出し経を唱えた。

すると経の一言一言が雷になり大蛇を襲い、大蛇は弱り出し、ついには蛇体をくねらせ苦しみ出した。佐夜姫は経を読み終わるや、手にした薬師如来像を大蛇に投げつけると、それは大蛇の角にあたり、角は折れ頭から落ち、大蛇の姿は姫井とともに消えた。嵐が治まると、大蛇は湖の岸辺で死んでいた。里人は角を角塚に、大蛇の体は大塚に埋め、堂を建立し佐夜を加護した薬師如来を祀った。佐夜姫は里人たちの感謝の気持ちを受けて、母の待つ肥前松浦へと帰っていった。その後、佐夜姫は、薬師如来の化身だったのではと噂になったという。