岩手県宮古市田鎖字三合並

2017/04/08取材

 

田鎖城は、閉伊川南岸の田鎖山塊の先端の、標高約50mの台地に位置している。尾根続きの基部は空堀で断ち切られ、二の郭、副郭と続き、その規模は東西約380m、南北約420mである。主郭、二の郭、物見台、空堀などが遺構として見られる。

この地域一帯は中世には閉伊氏により支配されていた。閉伊氏は、鎮西八郎源為朝の子孫と伝えられ、為朝が伊豆大島に流刑となり、大島で生まれた島冠者為頼を始祖としているとさえる。その後為頼は源頼朝に仕え、佐々木四郎高綱の猶子となり、奥州合戦後に頼朝からこの閉伊郡の地頭職を給わり、頼基の時の建久元年(1190)下向し、閉伊氏を名乗ったと云う。

当時は、平泉滅亡後、その残党の大河兼任が乱を起こした後であり、閉伊氏は、現在の宮古湾に注ぐ閉伊川流域を所管し、千徳城、田鎖城を拠点に統治にあたった。

南北朝期の時、閉伊親光は南朝方の北畠顕家の在勤する多賀の国府へ參府し、領地の安堵を願い出て、南朝方として行動していた。しかし延元3年(暦応元年=1338)、北畠顕家が戦死すると、南朝方は衰退し、閉伊氏は北朝方に転じたようだ。そのためか、正平10年(1355)閉伊氏は南部政行に攻められ敗れ没落した。

この頃から閉伊氏宗家は田鎖(多久佐利)姓を名乗るようになり、一族間の争いが多くなったようで、永和年間(1375~79)に改修されたと思われる。田鎖氏は、松山館の白根氏、折壁館の伊藤氏など近隣の土豪と幾度となく戦ったが、常に他領に軍を進めて戦い、田鎖城が戦火にまみえることはなかったと云う。

しかし、その後の応永から永享のころ(1394~1440)、南部守行が閉伊を征伐した際には、閉伊一族は宗家の命に従わず南部氏に従い、一族はそれぞれ一家をなして、田鎖氏も一国人として南部氏に組み込まれていった。

天正19年(1591)の九戸政実の乱の折には、一族の千徳氏などと共に、南部氏、九戸氏のいずれにも味方せず、静観の態度をとり続けたためだろう、豊臣秀吉の朝鮮出兵による名護屋城参陣の留守中に、田鎖城は千徳氏の千徳城とともに、南部氏により密かに破却された。