岩手県北上市和賀町岩崎16地割

2012/07/12取材

 

「北上市立鬼の館」は、「鬼」をテーマにした博物館である。

現在「鬼」と言えば、一般的には頭に二本もしくは一本の角が生え、頭髪は細かくちぢれ、口に牙が生え、指に鋭い爪があり、虎の皮のふんどしや腰布をつけ、表面に突起のある金棒を持った大男である。色は赤青黒などさまざまで「赤鬼」「青鬼」「黒鬼」などと呼称される。

しかしその姿は千差万別で、大きく5つに分類されるという。
①、民俗学上の鬼で祖霊や地霊。
②、天狗など、山岳宗教系の鬼、山伏系の鬼。
③、邪鬼、夜叉、羅刹など仏教系の鬼。
④、盗賊や凶悪な無用者など、人鬼系の鬼。
⑤、怨恨や憤怒によって鬼に変身の変身譚系の鬼。

これらの中でも、東北地方に多く伝えられるのは、蝦夷を「鬼」とするものである。この「鬼の館」のある北上市の市民憲章にも「あの高嶺、鬼すむ誇り」とあり、「鬼」を祖霊と考えているということだろう。

大和勢力が東北地方に勢力を拡大し始めた時期、当時の大和から見ての東北地方は「鬼門」の方角にある未知の世界であり、白河の関以北は異界の地だった。大和勢力は、東北の人々を「蝦夷」と呼び、「鬼」と同一視し征伐の対象とした。大和勢力の拡大とともに、南奥羽では大和勢力との同化が進み、それを是としない蝦夷勢力は「まつろわぬ民」として次第に北方に後退していった。

奈良時代後期には、現在の岩手県南部では大和勢力と蝦夷勢力は度々交戦し、大和勢力はその都度撃退されていた。延暦8年(789)頃、この地に蝦夷の軍事指導者としてアテルイが現れる。

大和朝廷は、征東将軍紀古佐美を送り、紀古佐美は胆沢郡の入り口にあたる衣川に軍を駐屯させた。そのまま日を重ねていたことで桓武天皇の叱責を受け、朝廷軍4千は北上川を渡り、アテルイの蝦夷軍約3百と交戦した。朝廷軍は数に任せて蝦夷軍を追い巣伏村に至ると、蝦夷軍は約8百の新手が加わり、更に後方を約4百の蝦夷軍に塞がれ、朝廷軍は大混乱となり壊走した。

その後、朝廷は大伴弟麻呂と坂上田村麻呂を送り、蝦夷勢力は敗れ、アテルイは部下5百人を率いて降伏した。蝦夷勢力と直接干戈を交えた坂上田村麻呂はアテルイの勇気と人柄に感銘したようで、アテルイらの命を救うよう提言したが、朝廷の貴族たちからすればアテルイたちは鬼門の外に棲む「鬼」そのものであり、「野性獣心、反復して定まりなし」とし、河内で処刑された。

蝦夷勢力は胆沢と志波の地から一掃され、田村麻呂は延暦21年(802)、胆沢城を築いた。

この「鬼の館」の館長の「ごあいさつ」に次のようなくだりがある。

「市民憲章の冒頭に《あの高嶺、鬼すむ誇り》とうたった北上市民にとっては《鬼》は私たちを見守ってくれる祖霊であり、幸せをもたらす善神でもあります」