岩手県盛岡市北山二丁目…聖寿寺

震災前取材

楢山家は、盛岡藩主南部氏の一門として、代々家老職を務める家柄で、現在の岩手県庁のある、盛岡城の内丸に屋敷を構えていた。

楢山佐渡隆吉は22歳で家老になるが、嘉永6年(1853)南部藩では江戸時代最大規模の一揆で、仙台藩に越訴した三閉伊一揆が起きた。隆吉は、当時隠居ではあったが藩政の実権を握っていた南部利済に諫言したため一度罷免されたが、幕府老中の阿部正弘の計らいで復帰し、最終的には仙台藩と交渉して、一揆をとりまとめることに成功し、盛岡藩の危機を救った。一揆騒動後に主席家老として、藩財政の建て直しをしたが、その手法は穏健であり、改革急進派とは対立した。

慶応3年(1868)、鳥羽伏見の戦いが終わった直後の京都に、朝廷の命により御所警備のために兵を連れ赴いた。京都滞在中に、西郷隆盛や岩倉具視、桂小五郎ら新政府側の主要人物と接触、その急進的な考えに相容れないものを感じ、奥羽越列藩同盟への加盟を決意したと云われる。

隆吉は6月、海路帰国の途につき仙台に上陸し、仙台藩家老の但木土佐と会見、互いの決意を確かめ合い帰途についたと云う。盛岡藩内部でも勤王思想は強く、特に遠野南部家は強硬に新政府側につくことを主張、また八戸南部家も勤王思想が強く、密かに秋田藩と通じており、結局この遠野と八戸はその後の戦闘には参加しなかった。隆吉は、これら藩内の反対派を押さえ、藩論を奥羽列藩同盟への参加継続で一致させた。

南部藩の戦う相手は、奥羽列藩同盟から離脱し新政府側についた秋田藩だった。隆吉は、南部藩兵の指揮をとり、大館城を落城させ本城の久保田城を目指した。しかし要衝のきみまち阪で、最新のアームストロング砲で武装し、西洋式の訓練を受けた佐賀藩兵らに迎撃され状況は一変した。藩境まで押し返され、そこで膠着状態になるが、その間、次々に奥羽列藩同盟の藩が離脱していく状況に、ついに隆吉は撤兵を決意した。

同盟側で戦った各藩はその責を問われ、仙台藩では但木土佐、会津藩では萱野権兵衛が斬首され、南部藩では楢山佐渡隆吉が盛岡の報恩寺において斬首され、家名は断絶となった。このとき、隆吉の教えを受けた「戸田一心流」皆伝者江釣子源吉が、自ずから申し出て介錯したという。享年39歳だった。

花は咲く 柳はもゆる 春の夜に うつらぬものは 武士の道

盛岡南部藩はその後賊軍として苦難の道を歩んだが、楢山家の家名は明治22年(1889)復興し、この地の墓石もそのときに建立された。

大正6年(1917)、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。楢山佐渡と同様に盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁の原敬は、祭主として列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、盛岡藩への賊軍、朝敵の汚名に対し抗議の意を示したと云う。