岩手県盛岡市天昌寺町

震災前取材

鉈屋町には盛岡町家が連なり、藩政期の町並みを今に残している。

鉈屋町にかつて、鉈屋山菩提院という寺があり、寛永(1624~1644)の頃、京都の富豪の鉈屋長清各地を廻り盛岡へ来たり、この地に建立したことから町名になったと伝えられる。

この地は、江戸時代から良質の湧水が豊富な地域で、そのためた豆腐屋や蕎麦屋、酒、味噌、醤油などの醸造業が盛んだった。今も大慈清水、青龍水は盛岡三清水に数えられている。

鉈屋町の西側に水主(かこ)町の一画があり、北上川の舟運に従事する船頭などが住んでおり、また新山舟橋を管理する役目も持っていた。また、藩主の飼っていた鶴の餌にする川魚を捕る仕事などもしており、小禄ではあるが藩から扶持を得ていた。