岩手県二戸市白鳥

2017/05/12取材

 

この岩屋は、九戸城の南東約6km、九戸へ向かう道から折爪岳山中に入った位置にある。

南部氏は南部信直の南部氏後継を巡っての争いが尾を引き、一族を二分して、九戸政実方と南部信直方の争いが絶えなかった。天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐の際も南部領はその争乱の中にあったが、信直は小田原に参陣し本領を安堵された。その後、秀吉は小田原攻略後すぐに奥州仕置を開始した。

仕置軍が奥州から引き上げると、葛西、大崎、和賀、稗貫氏の遺臣らが蜂起し南部領内も不穏な状況となった。この機に乗じ九戸政実は翌年3月に挙兵した。信直は苦戦を強いられ、豊臣秀吉に、天下の惣無事令に違背するものとして訴え、9月には6万を超える奥州再仕置軍が九戸城を囲んだ。

九戸の籠城軍は5千人と少なかったが善戦し、苦戦と疲弊の上方軍は冬の訪れも近いこともあり、浅野長政、蒲生氏郷らは謀略を用いて開城させ、九戸勢を撫で斬りにした。九戸政実らは、宮城県三迫で処刑された。

この撫で斬りから逃れた者もそれなりにはいたようで、ある者は津軽や秋田方面に逃れ、またある者は九戸氏の本貫の地の九戸村方向へ逃れた。

この地は、九戸の姫君が逃れ来て、この岩窟にしばし身を隠していた場所と伝えられる。九戸村方向へ逃れたものの多くは、追っ手を避け、折爪岳山中に逃れたものと思われる。

この岩窟に身を潜めた「九戸の姫君」が誰であるのか、またその後の消息などは伝えられていない。