岩手県野田村野田

2012/03/31取材

野田塩ベコ道
野田塩ベコ道

かつて十府ヶ浦海岸では製塩が盛んで、付近には10箇所の塩釜があった。製塩は「直煮出し」という大変な重労動で、苦労して作られた塩は大切な商品だった。野田通りの農民たちは、生きていくための確かな家業として煮塩に精を出した。塩は当時は貴重なもので、北上山地を越せば、塩一升が米一升に変わる価値のあるものだった。

製塩された野田塩は、鉄などとともに牛の背に積まれ運ばれた。牛方は一人で、7頭の雄牛を追って細く険しいベコの道を、北上高地を越えて盛岡や雫石方面に多く運ばれ、さらに奥羽山脈に分け入り秋田鹿角方面までをも交易圏とし、米、粟、そば、豆などの穀物と交換されていた。

人々はその牛を、「野田ベコ」とよんでいた。野田塩を運んだ先人が、何百年も踏みしめた古道「ベコの道」は、今はただ追分の庚申塔や道祖神だけが残っている。

明治38年(1905)からは塩は専売制となり、明治43年(1910)にはすべての製塩は廃止された。野田での製塩はいったん途絶えていたが、平成に入り「村の宝の再発見」ということで、現在は伝統的な製塩が行なわれている。