岩手県二戸市浄法寺町…天台寺

2013/06/10取材

長慶天皇は第98代天皇にして、南朝の第3代天皇である。後村上天皇の第一皇子で、母は二条師基の猶子・嘉喜門院。

南朝の関係史料は少ないことから、その実在も含め、天皇在位については長く議論されたが、大正期以降は、その在位が定説となっている。しかし、その生い立ちや事跡など不明な点も多く、その墓所も確定には至っておらず、東北地方を中心に20箇所以上に伝承として伝えられる。

長慶天皇の時代には、すでに南朝は北畠親房らの重鎮を失い弱体化が著しかったが、長慶天皇は北朝に対しては強硬で、後村上天皇の代に何度となく持ち上がった和睦交渉は途絶していた。しかし正平23年(1368)、和平派の楠木正儀が北朝へ降るなどその退勢は如何ともしがたく、和平派が擁立する後亀山天皇に位を譲った。

当時、現在の青森県、岩手県北部に大きな勢力を有していた南部氏は、有力な南朝方の領主であり、南朝方の北畠氏を庇護していた。このようなことから南部氏の勢力範囲を中心として、長慶天皇の伝承が多く残り、また御陵伝説地が点在する。

この二戸の地は、南部氏の本拠地にも近く、また墓のある天台寺は奈良時代からの歴史のある古刹で、北奥羽の仏教の中心地だったとも言える地である。陸奥を拠点とし南朝の復活を意図する長慶天皇が、この地に至ったということは十分に考えられる。