岩手県滝沢市鵜飼字狐洞

2013/04/28取材

この地は冷涼な気候もあり、これらの塔が建てられた頃には、ほぼ2年に1回の割合で飢饉に襲われていた。なかでも元禄8年(1695)、宝暦5年(1755)、天明3年(1783)、天保4年(1833)の飢饉は悲惨で、これらを南部四大飢饉と称している。

宝暦5年(1755)には、19万9700石の減作となり、収穫皆無の所が多く、藩内全人口の17%にあたる5万4千人あまりが餓死した。天保の飢饉は3年から9年までの7年間にわたる大規模なもので、毎年80%から90%以上の減収という未曾有の大飢餓だった。藩による救済も焼け石に水で、なすすべもなく、農民は飢えに苦しみ、村を捨てて離散するものも多かった。

農民の餓死者の数は不明であるが、この碑は打ち続く凶作の犠牲になった人々の供養のために建てられたものであり、塔はそれぞれ、寛政12年(1800)、文化12年(1815)、天保3年(1832)、安政2年(1855)に建てられたもので、うち続く凶作に力尽きてたおれた人々の冥福を祈り、村人たちにより建てられたもの。

文化12年の塔以外は、この地の周辺に建てられていたものだが、道路整備等により、昭和54年(1979)この地に移転した。