岩手県八幡平市松尾寄木

2016/09/25取材

松尾鉱山は、19世紀末から1969年まで存在した、一時は東洋一の規模を誇る硫黄鉱山だった。

この地で硫黄が産する事は古くから知られていて、寛政8年(1766)の文書や、明治12年(1879)の文書に記録されている。

本格的な採掘は、明治44年(1911)に横浜の貿易会社増田屋が経営を掌握してからで、鉱山がある標高約900メートルの元山から麓の屋敷台まで索道を通し、昭和9年(1934)には、東八幡平駅から花輪線大更駅まで、松尾鉱業鉄道が敷かれた。

一時は日本の硫黄生産の30%、黄鉄鉱の15%を占め、東洋一の産出量を誇った。しかし高度成長期になると、硫黄の需要が減少、輸入が増加し採算が悪化。さらに1960年代後半、石油精製工場において脱硫装置の設置が義務付けられたことで、脱硫工程の副生成物として得られる硫黄の生産が活発化し、硫黄鉱石の需要は完全になくなった。このため、昭和44年(1969)、会社更生法を申請して倒産、全従業員が解雇された。

標高900メートルの無人の山間に鉱山町が形成され、最盛期の昭和35年(1960)には1万3594人に達した。太平洋戦争中の1940年からは、労働力減少のため朝鮮人労働者も投入された。

戦後は労働者の確保を図るために、家族も含めた福利厚生施設の充実がはかられた。このため公団住宅が一般化する前の時代に、水洗トイレ、セントラルヒーティング完備の鉄筋コンクリートによる集合住宅や、小・中学校、病院、活躍している芸能人を招いて公演を催す会館など、当時の日本における最先端の施設を備えた近代的な都市が形成され、「雲上の楽園」とも呼ばれた。

閉山後は、木造の建物は焼却され、現在は鉄筋コンクリートの建物だけが廃墟として残されている。