岩手県二戸市金田一

2012/11/05取材

この地は、相馬大作が開いた演武場の跡である。相馬大作の本名は、下斗米秀之進将真と言い、現在の二戸市の南部藩士の二男に生まれた。幼い頃からまがったことは嫌いで、無類のきかん坊だった。しかし兄は病弱であり、ある時その兄が、父母に「家督は弟に譲って下さい」と頼んでいるのを聞いてしまった。そのため秀之進は兄の気持ちを思い、文化3年(1806)17歳の時、脱藩して江戸に上った。

江戸では、夏目長右衛門や平山行蔵に師事し、兵法武術を学び、文武とも頭角を現して門人四傑の一人となり師範代まで務めるようになった。文化14年(1817)には、地形状況視察の為に蝦夷地に渡り見聞を広めた。しかしその後父が病気と聞き帰郷した。

蝦夷地探検の経験から北方警備の重要性を痛感し、文政元年(1818)、この地に演武場を開き、近隣の子弟を集め実用流の兵法や砲術、槍、剣柔、馬術などを教えた。門弟は二百数十名にのぼり、講堂、書院、水練場まであったと云う。演武場の建設は、全て門弟たちの作業により完成したもので、その教育は質実剛健を重んじ、真冬でも火を用いずに兵書を講じたと伝えられる。

その後、南部藩では格下と思っていた津軽藩が、高直しで石高が南部藩より上まわり、また藩主の冠位も津軽藩主の方が上位となっていた。秀之進はこれに義憤を感じ、文政4年(1821)、津軽藩主津軽寧親の襲撃事件を計画する。この襲撃は未遂に終わったが、秀之進は相馬大作と名を変え江戸に潜伏していたのを捕らえられ、事件の首謀者として処刑された。