スポンサーリンク

宮城県松島町松島字町内…瑞厳寺境内

震災前取材

 

瑞厳寺の前身の延福寺は第28代住持儀仁を最後に破却され、禅宗の円福寺に転換する。

「天台記」によれば、宝治2年(1248)、延福寺で山王七社大権現の祭礼が行われていた。東国修行中の執権北条時頼が舞楽の上演を楽しんでいたが、つい面白さの余り「前代未聞の見物かな」と大声を発した。 大音声に驚いた稚児が舞の途中で立ち往生してしまった。神楽を中断させると言うことは、いかなることがあっても許されることではない。このことに荒法師達 は怒り、時頼は殺されそうになった。一人の僧の「山王大師祭礼二依リ殺生二及ブ可カラズ」の一言で事なきを得、近くの岩窟に逃げ込んだ。

岩窟(法身窟)にはこのとき修行僧の法身がいた。時頼が、一夜の宿を貸しては頂けないかと頼むと、僧は「沙門は三界を宿とし一心を安んじて本宅となす。誰を主とし、誰を客とせん」と答え、時頼を丁寧に迎えた。二人は意気投合し法談で時を重ねた。話すうちに時頼は法身の禅僧としての高潔さにうたれた。

時頼は、鎌倉に帰った後、三浦小次郎義成が率いる千人の軍兵を与えて松島に向かわせ、延福寺から三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流した。僧達の一部は福浦島に逃れ、経文はすべて経ヶ島で焼かれた。

その後、時頼は、岩窟の僧を捜し出して新しく円福寺と名を改めた寺の住職とした。この時から、瑞巌寺は円福寺という臨済宗の寺として生まれ変わることになり、北条氏の庇護を受けることになった。