岩手県盛岡市南仙北二丁目

震災前取材

この地の石塔は、 北信景(きたのぶかげ)の墓と伝えられる。

北信景は、南部氏家臣桜庭光康の子で、桜庭直綱の実弟で通称は十左衛門。南部氏の宿老の北信愛の養子となり、南部利直に仕え、白根金山を発見し金山奉行として盛岡藩初期の財政に大きく貢献した。

しかし、信景の十歳の嫡男の十蔵が、主君利直の戯れから罪人を斬ることを命じられ、逆に返り討ちにあい命を落とした。これに怒った信景は屋敷に篭り出仕しなくなり、利直は怒り閉門を命じたが大阪に出奔した。

大阪城に入った信景は金色に輝く甲冑を身につけ、「光武者」と呼ばれ大阪の陣で活躍したが、「南部十左衛門」の銘の入った矢が徳川秀忠の目に留まり、これにより南部利直は大阪方と通じていると疑われ、その面目を失った。

大阪の陣後、伊勢で捕らえられ、南部家に引き渡され盛岡で処刑された。その処刑は残虐なものだったと云い、毎日手足の指を一本ずつ切られたが、信景は躊躇する処刑人を逆にはげまし、最後は南部利直が自ずから弓で処刑したと伝えられる。

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