遠野市上郷町細越31地割

2014/05/09取材

 

社殿東方の栃の木の根元の穴に溜っている水で眼を洗う慣習があったと云う。坂上田村麻呂が戦の前の日に、この地の石を試し切りにした。その石が後に、この栃の木の根元に入り込み、水を湧き出させるようになったという。

その後の建保年中(1213~18)、この地の領主の阿曽沼朝綱が、上有住村秋丸に薬師如来を祀り、それが現在地に移されたのが日出神社の始まりとされる。

寛文年中(1662~73)八戸から遠野へ移った遠野領主の南部直栄が、眼病平癒を祈願したところ功験が顕著であったことから崇敬深く、社領五石を寄進し年々奉幣参向し、以来遠野郷は勿論、気仙郡並びに釜石、花巻方面よりも尊崇を得たと伝えられている。

明治維新後の神仏分離により、日出神社となり、明治5年(1872)村社の取据えとなり、祭祀が行われるようになった。

この地には義経伝説も伝えられている。

源義経には「日出姫」という隠し子がいた。日出姫は、平泉を脱出した義経主従を追って此の地にやって来たが、旅の無理がたたりこの地で病を得て亡くなった。それを不憫に思った村人たちは、姫をこの神社に祀り、日出神社と称するようになったという。

また別に次のようにも伝えられる。

義経はこの地にしばらくとどまり、この地の長者の娘との間に日出姫が生まれた。姫は長じて後に、この日出神社を勧請したと云う。