岩手県陸前高田市気仙町砂盛

2013/04/23取材

 

この一本松のモニュメントのあった地は、東日本大震災の前は「高田松原」と呼ばれる一面の松原だった、その西端に位置する。

高田松原は、350年にわたって植林されてきた約7万本の松の木が茂り、三陸復興国立公園や日本百景にも指定されていた景勝地だった。この地にあった一本松は、アカマツとクロマツの交雑種で、高さは約27.7m、胸高直径は87cm、樹齢は175年だった。松原の中でもとりわけ大ぶりな個体でだった。

2011年3月11日、14時46分に発生した東北地方太平洋沖地震は大規模な津波を引き起こし、約40分後に第1波がこの地を襲った。最大17mの高さの津波は、松原の木をほぼ全てなぎ倒し、陸前高田の市街地にも壊滅的な被害をもたらした。

しかしこの一本松は、倒れずに津波に耐え、枝も幹も無事な状態で残った。この地域一帯は、松原はもちろん市街地の殆どが流され、瓦礫に埋もれた中で、ただ一本、空に向かって高く立っている一本松は、震災からの復興への希望を象徴するものとしてとらえられるようになり、誰言うとなく「奇跡の一本松」と呼ばれるようになった。

しかし、震災を生き延びた一本松だったが、その後の生育は当初から厳しい状況にあった。震災の当日は10時間以上も水没したままで、津波により海水や油、化学物質が根元の土壌に染み込んでおり、幹にも漂流物による傷が付いていた。また地震のため周囲の地盤が80センチメートル程度沈下し、根が海水に浸るようになっていた。

2011年4月には、各地から造園業者などが集まり、プロジェクトチームを組織して一本松の保護に当たったが、5月中旬より葉の変色が始まり、6月にはほとんどの葉が赤茶色になり、枯死の可能性が高まっていた。地元の造園業者ら有志は、一本松の周囲に鉄板を打ち込み根を囲い、海水の流入を遮断し、真水を注入し土壌の塩分濃度を下げるなどの試みを行い、7月には新芽が伸び、緑葉の伸長と松かさの形成も見られた。

しかしそれでも、完全な回復までには至らず、また周囲の松の流失により孤立木となっていたため、夏期には高温や乾燥にさらされ、ゾウムシ類による食害も健康悪化にさらに追い打ちをかけ、10月にはあらゆる根が腐り枯死が確認された。

その後、震災からの復興を象徴するモニュメントとして残すことになり、幹を防腐処理し心棒を入れて補強し、枝葉を複製したものに付け替えたりするなどの保存作業を経て、現在、震災モニュメントとして元の場所に再び立てられた。その命は枯れたが、多くの方々が挿し木などでその命を繋いでおり、いずれの日か、その奇跡の一本松の子孫が、この地に繁茂する日がくるかもしれない。

松原がすべて流され、市街地の瓦礫の原の果てに、最後の力を振り絞り、凜として立ち、残された人々に希望を少しずつ分け与え、一本松は立往生した。その姿は、この地の方々の心に永遠に残るものだろう。

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