宮古市崎鍬ヶ崎

2016/04/08取材

 

別名:軍艦島

日出島は、集落の東約600m沖の島で、近くの集落からは、この島から朝日が昇るように見えるため、日出島と呼ばれている。島の周囲は約1.8km、最高部標高は約50mである。

この島は、環境省のレッドリストで絶滅危惧II類に分類される「クロコシジロウミツバメ」の西太平洋で唯一の集団営巣地で、国の天然記念物に指定されている。そのため島への上陸は禁止されている。島の南北に尖った地形から、船に見立てられて別名軍艦島とも呼ばれている。

明治2年(1869)、宮古湾内での新政府軍と旧幕府軍との海戦では、旧幕府艦が敵と誤り島を砲撃したと伝えられている。

榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、江戸城の無血開城後、徹底抗戦を主張し幕府艦隊を率い江戸を脱走、蝦夷地の箱館を占領し、箱館政権を樹立していた。榎本らは、新政府軍の「甲鉄」、「春日」など8隻の艦隊が宮古湾に入港するとの情報を入手した。旗艦の「甲鉄」は、フランス製軍艦で、当時日本唯一の装甲軍艦だった。旧幕府艦隊は、宮古湾に停泊するこの甲鉄を奪取する作戦を立案し実施に及んだ。

海軍奉行の荒井郁之助、検分役の土方歳三、斬り込み隊の神木隊、彰義隊など合わせて約500名が3艦に乗り込み、3月21日未明箱館を出港し宮古湾を目指した。途中暴風雨に遭遇し、艦隊が離散するなどトラブルもあったが、「回天」と「高雄」により作戦は実行に移され、25日未明に決行された。

この日出島は、宮古湾の入り口にあり、旧幕府艦隊は、未明の薄明りの中の極度の緊張の中で、新政府軍の軍艦と誤認したようで、島に砲撃を加えた。

宮古湾の新政府軍艦隊は油断しており、旧幕府艦隊の奇襲は成功し、「回天」が「甲鉄」に接舷したが、ガトリング砲に阻まれ奪取できず、逆に敵襲に気づいた新政府軍の艦艇から集中砲火を浴びて大きな犠牲を出し撤退、宮古湾を離脱した。

この時、東郷平八郎は新政府軍の砲術士官として従軍しており、このときの戦いを後年まで忘れず、勇敢に戦い戦死した旧幕府軍の戦いぶりを顕彰している。