岩手県遠野市松崎町光興寺第八地割

震災前取材

 

 

  • 腰郭と切岸

 

 

別名:護摩堂館

横田城は中世の遠野領主の阿曽沼氏歴代の居城。築城年など詳細は不明であるが、伝承によれば建保年間(1213~1219)の鎌倉時代と伝えられる。

城は背後の高清水山の尾根筋の、鶴音山の山麓の台地に築かれ、前面は猿ヶ石川を天然の堀とし、東西は深い沢に囲まれている。北側の背面や、尾根筋は幅広な空堀で区切られ、前面の南側斜面は、数段の郭が配され、現在集落や農地となっている場所にも段築が見られる。主郭跡には、現在薬師堂が祀られている。

文治5年(1189)、源頼朝の奥州平泉征討の際に、戦功があった下野国佐野の御家人、阿曽沼広綱が遠野郷を領した。横田城は、この時期に広綱の次男、阿曽沼親綱によって築かれたとされる。

しかし、当時は、阿曽沼親綱は本国の下野国にあり、この地には重臣の宇夫方氏を配し統治したと考えられる。阿曽沼氏の本格的な下向は南北朝期だったと考えられ、現在残る遺構は、その時期に改修されたものと思われる。

しかし、周辺部がたびたび猿ヶ石川の洪水の被害に遭ったため、阿曽沼広郷(ひろさと)の代の天正年間(1573-1591)、鍋倉城を築き本拠地を移した。