福島県の田村地方に伝えられる田村麻呂伝説と大多鬼丸(滝根丸)伝説について史実から少し深堀りし、真実を検証しようと思う。
田村地方において、大多鬼丸(滝根丸)伝説は、悪逆非道の「鬼」として描かれているが、それとは別に、理不尽な大和朝廷の支配に対する抵抗勢力として描かれているものもあるが、果たして真実はどうだったのか。
田村地方には、坂上苅田麻呂が大熊に乗って阿武隈川を渡った地に功田があったとされ、それは恐らく事実だろう。田村氏は、平泉時代には奥州藤原氏の勢力下にあり、源頼朝の奥州合戦によって、一時没落したとする説もある。恐らくは鎌倉政権に対してこれを巻き返そうとし、坂上田村麻呂以来の伝承系譜をまとめ、名家としてアピールし、それが鎌倉政権にも認められ、田村家の存続を許されたものと考えられる。その坂上田村麻呂の活躍を語るうえで、その敵役として大多鬼丸(滝根丸)が選ばれたのだろう。
また、田村氏は、豊臣秀吉の奥州仕置きにより、大名としては一旦断絶したが、伊達政宗の正室愛姫の実家であることもあり、伊達騒動後に、一関3万石として分知して田村家として明治まで続いた。この田村家が独立した大名家になる上で、坂上田村麻呂伝説が、江戸幕府に対するものとして、伊達藩によりさらに整理されたのではないだろうか。
仙台藩領南部の大河原周辺には、日本武尊と白鳥伝説が多く残り、また田村伝説の鶴子丸に通じる、児捨川伝説が残る。また、多賀城周辺を中心に残る悪玉姫(阿口陀媛)と千熊丸伝説が「仙台浄瑠璃」として盛んに語られていた。
さらに田村地方の田村麻呂伝説には不可思議な点がいくつかある。
神亀元年(724)、に多賀城が創建され、天平宝字4年(760)には現在の石巻市に桃生城が完成した。この時期には、福島県はもとより、宮城県南部までの地はすでに大和政権に組み込まれ、大きな混乱はなかったようだ。
しかし、宝亀11年(780)、伊治公呰麻呂が反乱を起こし、蝦夷らがこれに呼応して、陸奥国府の多賀城を襲撃し、物資を略奪して城を焼き尽くす事件が発生した。この事件以降、陸奥、出羽における蝦夷の離反と反乱が多発する。中でも、現在の岩手県の胆沢地方では、阿弖流為を中心とした蝦夷勢力が強大化してきたようだ。
そのような中での戦いの巣伏の戦いが戦われ、朝廷軍は敗れ、延暦20年(801)坂上田村麻呂が征夷大将軍として東北地方に入ることになる。田村麻呂は4万の大軍を率い、それを背景に周辺の蝦夷らを慰撫し、阿弖流為らの拠点を各個撃破し、胆沢城の造営を始めた。この胆沢城造営中、阿弖流為らは降伏した。
福島県田村地方の伝説では、大多鬼丸らと田村麻呂の朝廷軍との主戦場は、滝根山山麓の仙台平のようだが、田村麻呂は「ついに滝根丸を達谷窟まで追い詰め、滝根丸を自決させた」とされるが、達谷窟は、岩手県江刺の地であり主戦場を仙台平とする田村地方の伝説とは整合性がとれない。
田村地方で語られている。「大多鬼丸は、悪役としての悪逆非道な鬼であるか、あるいは大和勢力に抵抗した英雄か?」は、岩手県胆沢地方の阿弖流為伝説のものであり、田村地方ではそもそも成立しない。
それでも田村麻呂伝説は、鎌倉時代初期と、江戸時代初期の田村家再興には一定の効果があったとは考えられ、それを思えば、田村地方の田村麻呂伝説を取り巻く阿武隈川伝説や大多鬼丸伝説は、田村・三春地方の歴史を彩る花霞のようなものかもしれない。