義経北行伝説のモチーフは3つあり、そのうちの1つが下北半島を中心として起きた「蔵人の乱」だと考えられる。
南朝方の雄の八戸南部氏は、貞和4年(1348、正平3年)、護良親王の遺児良尹王を庇護し、良尹王はこの地の順法寺城に入り北部王家とされ、南部氏家臣の蛎崎氏は、赤星氏とともに宮家の与力に組み込まれた。
蛎崎蔵人信純の時期は、北部王家は100年ほどの間に既に五代を重ねており、南朝復興の望みもない中では、わずかな朝廷との接点があるだけで、周辺の他の土豪と変わるものではなかった。
当時の北部王家の当主は義純王だった。義純王は南朝復興の望みも失い贅沢三昧に暮らしていた。このような義純王を北部王家三代義祥(よしやす)は、こころよく思ってはおらず、折あるごとに義純と言い争いになっていた。
義純の妹を妻に迎えていた蠣崎蔵人は、北部王家のこのような内紛を利用し、「南朝復興」を大義名分とし義祥をたて、義純を謀殺し義祥の養子となり、「南朝の再興」と云う大義名分を旗印に蠣崎城に挙兵した。
蔵人は安東氏やアイヌ勢力、恐山の仏教勢力などと結び、康正2年(1456)8月には南進を始めた。九月に入ると、野辺地の金鶏城を占領し、南部氏一族が守る七戸城まで攻め落とした。
これに対して南部氏は、蠣崎蔵人追討の勅許を得て、反撃をはじめ、朝敵となった蠣崎勢は戦意を失い、野辺地に退いた。南部勢は蠣崎勢を攻撃したが、冬に入り寒さは厳しく雪になり、攻めあぐねた。
そのため南部勢は、海路、八戸から下北へ進み、蠣崎城を奇襲攻略することになり、船団五十隻ほどが八戸を出陣し、途中、嵐に遭遇しながら大間に上陸し、蠣崎城を奇襲攻撃し攻め落とした。
この蠣崎城の西10kmほどの地に九艘泊があるが、おそらくこの地は蠣崎氏の蝦夷地貿易の拠点と考えられ、蠣崎氏一族は、この地から蝦夷地へ逃れたと考えられる。
蝦夷地へ逃れた蠣崎蔵人信純は、その後、「コシャマインの乱」を鎮め、のちに花沢館に入り「松前藩」の祖となったと伝えられる。
青森県野辺地町
「弁慶の足跡」、愛宕公園の芭蕉句碑の土台石にあるくぼみは弁慶の足跡だという。
青森県横浜町
「源氏浜」義経が蝦夷地へ渡ろうとした時、波の鎮静を祈願したところ、海は静まり、海面にたくさんの軽石が浮かんだという。
青森県むつ市
「九艘泊」義経が蝦夷地に渡る際、九艘の船で停泊したという。
「琵琶石」弁慶が琵琶石に座って琵琶を弾き、海を鎮めたとされる。
青森県佐井村
「仏ケ浦」義経はこの浜から蝦夷地に橋を架けて渡ろうと、多くの材木を牛に運ばせたが、牛が疲れ果て倒れてしまい、その材木がすべて石となってしまったという。
青森県風間浦村
「立石大明神」弁慶が薙刀で岩を一刀両断し、その上に大岩を乗せ、蝦夷地への展望とした。
「ハネコエ島」義経が山の神の御告げに従い、蝦夷地に向かい出航した場所とされます。