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小野寺氏は輝道・義道の時代に、横手城を拠点として、戦国大名としての体制をほぼ整え全盛時代を築きあげた。南は最上地方へ進出し、北は仙北地方とそれに続く安東氏との対立であった。仙北地方への侵攻は永禄の中ごろからといわれ、大曲の前田氏を臣従させ、苅和野・神宮寺方面を併呑し戸沢氏を圧倒し、この間に六郷氏や本堂氏を臣従させたようだ。

この時期、庄内の大宝寺氏は最上地方進出を狙い、小野寺氏や、山形最上氏らと争っていた。大宝寺氏は庄内に勢力を拡大し、永禄6年(1563)頃には一族や国人らの反対勢力を平定して、庄内三郡を掌中に収め、最上地方への進出を本格化していた。大宝寺氏は戸沢村の小野寺氏の支配下の鮭延氏を攻め幼少の嫡男秀綱を捕らえ、鮭延氏はやむを得ず鮭川村の鮭延城に退いた。

この当時、山形最上氏に義光が登場し、反抗的な一族や国人衆らを制圧し、強力な大名領国制をうちたて、大蔵村の清水城を拠点に小野寺氏と大宝寺氏に対抗していた。そして、天正9年(1581)、義光は鮭延氏攻略を決意し、氏家守棟を将として鮭延城を囲んだ。

このとき鮭延氏の当主は秀綱で、若冠16歳ながら知勇衆に優れた武将で、最上勢の再三の降伏勧告にも耳をかさず長期にわたって抵抗した。しかし、矢折れ、兵糧も尽き、最上義光の軍門に降った。以後、秀綱は最上氏の部将としてその名を残していくことになる。

小野寺氏にとって、この鮭延氏の離反により、南は最上氏にふさがれ、次第にその版図も縮小し始めていった。

小野寺氏は織田信長との結びつきを強め、最上氏や安藤氏など、周辺の勢力に対し優位な立場を確保しようと考えたのだろう。天正10年(1582)輝道は信長に臣属するために、留守を嫡子義道に任せ、雄勝を出発した。この時期は安東氏との間が険悪な時期でもあり、義道は幕下から人質をとることにし、由利衆からも人質をとった。

由利衆は小大名たちであり、小野寺氏と安東氏、戸沢氏の間で関係を結びその後背は定かではなかった。義道としては後背が定かではない由利衆を押さえるため人質をとったというところだろう。ところが、人質の一人である石沢氏の母は自分たちが死ぬことによって小野寺を討ってもらおうと考え、一緒にきていた人質である男の子供と共に自害した。これを知った由利十二頭は、一揆を組んで小野寺氏に対して兵を挙げ大沢山に押し出し、激戦が行われた。

この戦いは「大沢合戦」と呼ばれ、由利衆の戦死者50余人に対して、小野寺勢の戦死者480で小野寺氏は破れ、義道は由利衆に人質を返したが、義道にとってこの大沢合戦は痛い失点となった。このような中で輝道は没したようで義道が小野寺氏を継いだ。

義道は、天正14年(1586)、最上領となった旧領の回復を図り、六千余の軍勢を率いて有屋峠に向かった。小野寺側の動きを知った義光も一万余の軍勢を率いて小野寺勢を迎え撃つべく有屋峠に急行した。5月8日、小野寺・最上の両軍は有屋峠で激突し戦いが繰りひろげられた。緒戦は、最上勢は多数の死者を出して軍を退いた。このころ庄内で大宝寺氏に最上勢が敗戦を被ったとの報が義光にもたらされ、義光は子の義康に有屋峠を任して庄内へ急いだ。12日、義康率いる最上勢が反撃に転じ、その攻勢に小野寺軍は5百余人が討死し総退却となり痛い敗戦を喫した。

翌年、義道は安東実季を攻めようと刈和野に出陣した。最上義光はこれを好機として兵を出した。ここに、小野寺義道は腹背に敵を受けることになり、兵を分散して両面作戦に出た。最上氏は破竹の勢いで小野寺方の支城を攻略し、真室川の鮭延秀綱が小野寺方の諸将を懐柔したことで、雄勝郡の諸将は最上氏に投降した。ここに至り、小野寺氏の勢力は急速に後退していった。

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