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佐竹氏は清和源氏義光流で、義光の孫・源昌義に始まる。源義光は「後三年の役」の際には、官職を投げ打って奥州へ赴き、兄の義家を助け、役後、その功績により、陸奥や常陸に領地を得て、常陸では佐竹郷を領有した。

佐竹氏が奥州の地と本格的に関わってくるのは、佐竹義重の時代からと考えられる。義重は「鬼義重」「坂東太郎」の異名をとる豪勇の武将であり、関東管領職に補任された上杉謙信と結び、小田原北条氏の常陸進出を阻止していた。義重は、常陸小田・土浦方面、下野那須・芳賀方面、南奥白河方面への進出を展開した。

しかし、関東地方では、後北条氏と武田氏、上杉氏の三つ巴の争いの中で、永禄12年(1570)、上杉謙信と北条氏康との間で「越相同盟」が成立すると、謙信との同盟により後北条氏と対峙していた情勢が、微妙なものになっていった。

そのようななかで、義重は上杉・後北条・武田氏の勢力均衡の間を縫って、常陸中南部に勢力圏を拡大すると同時に、陸奥白河領への進出を強めた。

義重は北上を始め、現在の福島県塙町の羽黒山城を巡り白河結城氏との間で激しい攻防が行われた。この地方には八溝金山があり、その支配を巡り、両者とも総力を挙げての戦いとなった。戦いは一進一退を繰り返しながらも、次第に白河結城氏は圧迫され、羽黒山城は佐竹氏により攻略された。

羽黒山城は、「道の駅はなわ」の北側の比高約170mの山塊全体を城域とした巨大な山城である。城の東山麓にある塙中学校の東の平館が平時の館であり、佐竹氏の南郷支配の拠点の1つであったと思われる。

城の中心は山頂にある出羽神社で、神社の背後には櫓台、そして深さ2mほどの堀切を隔て南西に郭があり、さらに郭が連なっている。この城は南北朝時代に築かれたと言われており、初期の段階ではこの中心部だけの簡素な構造だったものと思われる。その後、佐竹氏により手を加えられたものと考えられ、全山に人工的削平がほどこされている。大手口は東側に開けており、東側は土塁・堀・削平地がよく保存され、典型的な根小屋の屋敷跡を残している。

支脈状の尾根は、いずれも堀切が設けられ、尾根上は削平されてそれぞれ出城を形づくっている。山頂部から北方にのびる尾根の構築法は東側と異なり、幅広い堀切と土塁・櫓台等を配した連郭式の縄張となっている。

佐竹義重は、この羽黒山城を足がかりとし、白河領の南郷に侵攻し、元亀2年(1571)、現在の棚倉町の赤館を支配下に置いた。翌元亀3年(1572)に、白河義親は、南郷の領土奪回に出て南郷一帯で激戦となった。小田原の北条氏はこれを好機とし佐竹領の下妻城を攻めたため、佐竹軍は和睦を結び赤館を放棄した。

しかし天正2年(1574)には再び赤館城を攻め、赤館城は佐竹軍の攻撃の前に再び落城し、佐竹氏の有力家臣、東義久が城代として入城し、佐竹氏が支配するところとなった。さらに翌年には、白河結城氏の内紛に乗じて白河義親の居城を残して白河領の大半を征服し、二男の義広を 白河義親の養子として送り込み、白河結城氏を従属させ、実質的に白河領を掌握した。

赤館城は、主郭跡は公園として整備され、周辺には土塁跡が残っている。主郭から北側の尾根には横堀が築かれており、外側に土塁が残っている。主郭の南側には数段の小規模な段郭が配されている。周辺は住宅地になっており、改変が進んでいる。

この時期、会津の葦名氏は、白河結城氏と結び、佐竹氏とは対立していたが、葦名盛氏は家臣の統制に苦慮しており、さらに後継者問題も発生していた。そのため天正8年(1580)、盛氏の死とともに葦名氏は次第に衰え始める。盛氏の死後、須賀川の二階堂氏から婿養子を迎え後継とした。しかし天正12年(1584)に近従によって暗殺され、その後を継いだ遺児は翌年の天正13年(1586)に、3歳で夭逝した。

家臣団は、伊達派と佐竹派に分かれ揉めに揉めた末、佐竹義重の子を養子として迎え、葦名義広となった。

伊達氏は天正12年(1584)に伊達政宗が輝宗の後継となり、米沢から仙道地域に進出、翌年の天正13年(1585)に伊達輝宗が二本松の畠山氏に拉致殺害される事件が起きたことで、天正14年(1586)政宗は二本松城を包囲した。

伊達政宗の二本松攻めを知った佐竹義重は、伊達氏のこれ以上の南下を食い止めるために、葦名氏、岩城氏、石川氏、白川氏ら南奥羽の諸将らと連合し、須賀川で合流し陣をしいた。伊達政宗は本宮に本陣をおいた。このときの兵力は、佐竹、葦名らの連合軍が約3万、伊達勢は約8千だった。

伊達本陣を目指す連合軍と伊達勢は観音堂山麓の瀬戸川周辺で激突した。この戦いでは、政宗自身も槍を持ち、連合軍相手に一進一退の攻防を繰り返した。しかし兵力では圧倒的に勝る連合軍が次第に優勢となったが日没となり、双方が一旦兵を退いた。

伊達勢は、本陣付近に兵をまとめ翌日の決戦に備えたが、その夜、佐竹義重の下に、佐竹氏の領地の常陸に、江戸氏と里見氏が侵攻するという知らせが入り、佐竹勢は夜明け前に兵をまとめて常陸へ撤退した。これにより盟主を欠いた連合軍は統率を失い、それぞれに引き上げ、結果として伊達政宗が勝利を拾った形になった。

伊達氏にとってこの勝利は大きく、様子見をしていた仙道地域の諸将は伊達方となり、佐竹氏の南奥進出は抑え込まれた。

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