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4、徴用工は国民総動員法の戦時徴用

1910年の韓国併合以降、渡航する朝鮮人は急増し、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していた。その多くは出稼ぎで、土建現場や鉱山、工場などにおける下層労働者だった。その中には、家族を呼び寄せたり家庭を持つなどして、日本に生活の拠点を置き、永住化もしくは半永住化を志向する人々も多かった。

当時、日本での朝鮮人の生活は劣悪なもので、川辺や湿地帯に集落を造り、賃金も日本人の約半分であったとされる。然しそれでもこれは、当時の朝鮮人の朝鮮国内の賃金と比較すると破格の高収入だった。日本は、これらの移民を制限し始め、朝鮮人の移入を阻止するために朝鮮、満洲の開発を急ぎ、密航の取り締まりを強化した。

1937年に日中戦争がはじまり、日本の労働力不足が深刻化すると、1938年4月には国家総動員法が、1939年7月には国民徴用令が日本本土で施行された。この時点では、徴用令は日本本土に限定されていたが、朝鮮半島では任意の募集が始まり、多くの朝鮮人が応募し日本本土に渡った。それでも半島各地域で、募集の人数割り当てがあったとされる。

1941年12月、太平洋戦争が始まると、労働力は著しく不足し、1943年には、日本国内では、学徒勤労動員が行われ、中等学校以上の生徒や学生が軍需産業や食料生産に動員された。同時に女子学生たちも女子勤労挺身隊として動員され、朝鮮半島の学徒にも適用された。しかしこの時点でも朝鮮半島では戦時徴用は行われず、翌年の敗戦近くになり、一部戦時徴用が行われた。また半島での徴兵は最後まで行われなかった。

しかし、戦争が次第に苛烈になるにつれ、各地域での労務徴用者の割当が厳しくなり、中には末端の朝鮮人官吏が、家の寝込みを襲い、或いは田畑で働いている最中にトラックで連れ出すようなこともあったようだ。「戦時徴用」は、現在の韓国の徴兵制と同様に、「意に反した」forced to workであることは間違いないが、朝鮮では「募集」であり「徴用」ですらない。人数割当などで、行き過ぎた側面もあったようだが、それは個人の不法行為であり、政府が法律の下で行った「強制連行」forced laborであるはずもない。

戦時徴用で、意に反して働かされた本土の日本人も朝鮮系日本人も、その労働は厳しいものだったようだ。1944年11月から着工された松代大本営建設における徴用の場合、1945年4月頃は日本人、朝鮮人1万人が交代で作業した。この工事には、「勤労報国隊」や、学生や生徒,児童など、多くの日本人も工事に携わっていた。しかし、朝鮮人差別もあったようで、松代大本営の地下壕の掘削は、そのほとんどが朝鮮人の手で進められたとも云う。

また別の証言によると、朝鮮で行われた1000名の鉱夫募集に対して7000人の応募者が殺到した。就業後も、休祭日は自由に町に繰り出し、ショッピングや船遊びを楽しんだという。またこの証言者は、北朝鮮と朝鮮総連は「徴用」を「強制連行」と言い換えるが、実態はまったく異なると批判し、自身の徴用志願の体験を韓国の学者に語っても、その学者は「新聞で読んだ話は正反対」だとして、実体験に基づく証言よりも、新聞の宣伝を信用するのであると述べている。

終戦直後の1945年9月、千葉県東金警察署長から千葉県知事に宛てた「終戦後の朝鮮人取扱に対し極度の不平不満に関する件」では、「大東亜戦争勃発と同時に移入労働者を徴用するに当り、田畑より看守付きでしかも自宅に告げる事なく内地の稼動場所へと強制労働に従事せしめた」「朝鮮人も日本人である以上大東亜戦争をして有終の美を得せしむべく不可能なる労働を可能ならしめ戦力の増強に寄与したる点は内地人に劣らざる」と書いている。

現在の韓国で言われている「強制徴用」「強制労働」は、明らかに誤りであり、当時日本だった朝鮮半島の、朝鮮系日本人に対する徴用は、国民総動員法にもとずく、全日本人に対する「戦時徴用」である。日本国内のあらゆる資源が、人的資源も含め戦争に狩り出されたのである。それは個人の意思に反して行われたことは言うまでもないが、戦時における徴用は、国際的にどの国も認めざるを得ないものだ。

もちろん、朝鮮半島での「募集」「徴用」で、李朝時代の悪弊が残る朝鮮半島で、朝鮮人官吏による横暴な「徴用」があっただろうことは容易に推測できるが、それは個別的問題で、日本政府が「強制徴用」を行ったこととはまるで違う。それでも本土の就労先で、差別的な扱いを受けたり、あるいは給与が払われなかったり、タコ部屋のような劣悪な環境に押し込められたりというようなこともあっただろう。

そのような道義に反する行為に対して、戦後の日韓基本条約の中で、当時の韓国の年間予算の2.5倍に当たる、有償無償8億ドルもの資金を、賠償金に変わるものとして拠出している。この時、日本政府は個々に補償金を支払おうとしたのに対して、当時の韓国政府は、個々への補償を韓国政府が行うとして、韓国への一括支払いを求め、「完全かつ最終的に解決」した。

韓国で「強制徴用」を叫ぶ者たちが忘れてはならないことは、当時の朝鮮半島は日本であり、徴用された者は日本人であり、日本の法の下にあったことだ。それは当時の日本の民主主義の中で定められたもので、意に反した労働も、税と同じ日本人の義務だった。日本本土では、それらは昔話になっており、これまで「謝罪と賠償」を求めた話などは聞いたことがない。

日本政府は、太平洋戦争を同じ日本人として戦った朝鮮人に対し、本来は戦時徴用で謝罪と賠償をしなければならないいわれは何もない。しかしながら、一部の朝鮮人官吏が、日本政府の威を借りての不法行為や、就労先であったと推測できる民族差別的な不当な扱いに対して、道義的な責任の上に、戦後の韓国に対して資金協力を行い、慰安婦問題も含め「完全かつ最終的」に解決しており、それを適正に受け取っていないなどの問題は、現在の韓国政府との問題である。

5、与えられたタナボタ独立と南北対立

日本の敗戦が間近になると、連合国は、日本の統治下にあった朝鮮の米英中ソ四国による信託統治を決定した。ソ連軍は、米軍との秘密協定に基づき、日ソ不可侵条約を反故にして、終戦の6日前の8月9日、対日参戦し、朝鮮半島の北緯38度以北を占領した。

1945年8月15日に大日本帝国がポツダム宣言を受託するとすぐに、朝鮮半島に残っていた活動家により、朝鮮建国準備委員会が樹立された。しかしこれは、同年9月に上陸したアメリカ軍によって解体され、朝鮮半島南部はアメリカにより直接統治が実施された。

東アジアから日本の力が消えると、それまでは表には出ていなかった、資本主義と共産主義の対立が、朝鮮半島で表面化し始めた。表面的にはアメリカとソ連の、38度線を境にした対立だったが、その裏には、中国大陸における国民党と中国共産党、そして蒋介石の下にあった大韓民国臨時政府と、毛沢東の下にあった抗日パルチザンの争いだった。

実質的にはアメリカ軍政下にあった南朝鮮では、李承晩、金九らは信託統治への反対を、呂運亨らは信託統治への賛成を打ち出して対立した。また南朝鮮の朝鮮共産党による朝鮮銀行100圓券の大量偽造が発覚し、アメリカはこれを機に、共産党を非合法化した。

1947年、国連は南部単独での総選挙の実施を決定、翌1948年、南部単独で初代総選挙が実施され、制憲憲法を経て李承晩初代大統領の下、同年8月、朝鮮半島南部を実効支配した大韓民国が建国された。その翌月の9月には、北部は、金日成首相の下、朝鮮民主主義人民共和国として独立した。

南北両国は、互いに朝鮮半島全土を領土であると主張、北朝鮮の金日成首相は、「国土完整」で南北統一を訴え、他方大韓民国の李承晩は、「北進統一」を唱え、互いに互いを併呑しようとし、その後の1950年6月に朝鮮戦争が勃発することになる。

朝鮮半島北部を抑えた金日成は、中国で活動した抗日武装団の一員だった。1932年頃、中国共産党に入党し、中国共産党が指導する抗日パルチザン組織の東北人民革命軍に参加した。革命軍は、中国革命に従事するための組織であったために、朝鮮独立を目指す潮流は排除されがちで、朝鮮人隊員はしばしば粛清された。

金日成は粛清を免れ、朝鮮人部隊を率いるようになった。普天堡の戦いで名を知られるようになったが、それは「抗日」を名目にした非武装住民からの略奪強盗だった。それでも1940年3月には、満州の警察部隊・前田隊を事実上「全滅」させたが、その後の日本側の帰順工作や討伐作戦により壊滅状態に陥り、1940年秋、党上部の許可を得ないまま、わずかな部下とともにソビエト連邦へ脱走した。

金日成部隊は、ソ連軍に編入され、1945年8月、ソ連軍が北緯38度線以北の朝鮮半島北部を占領すると、9月にソ連軍艦で元山港に上陸、ソ連の力を背景とし、北朝鮮統治の中核となった。

北朝鮮は、共産主義国家であるため、以前の李氏朝鮮などは否定する立場であり、そのため国家の歴史は1945年の日本の敗戦から始まる。そのためもあり、抗日戦争は、実際以上に誇張されている傾向がある。また、「日本陸軍士官学校を出ている」「義兵闘争のころから1920年代まで活躍した」「縮地の法を使い、白馬に乗って野山を駆けた」「白頭山を根城にして日本軍と戦った」などの、複数の人物がモデルとされる話を、金日成一人の伝説とし、その後しだいに神格化されていった。

大韓民国の初代大統領になった李承晩は、李氏朝鮮の王族の流れを持つ、没落両班出身である。1896年に設立された親日派の独立協会にも参加した。しかし親露派の高宗により独立協会は解散させられ、李承晩も1904年まで投獄された。日露戦争の勃発後、日本が勢力を拡大する中、高宗は、李承晩を釈放し、アメリカの援助を求めるためアメリカに派遣した。しかしアメリカを始めとした列強各国は、すでに日韓併合の方向に動いており、その企ては失敗に終わった。李承晩はそのままアメリカに残り、その留学中の1910年に、日本と大韓帝国の間で締結された日韓併合条約により、大韓帝国は大日本帝国に併合されることとなる。

1911年、日本領となった朝鮮半島へ戻り、ソウルのキリスト教青年会で宣教活動についたが、寺内正毅朝鮮総督暗殺未遂事件の関与を疑われ、再び渡米し、ハワイに居を構え、学校職員として勤務した。1919年4月、上海で「大韓民国臨時政府」が結成されると、臨時政府大統領となった。李承晩は、それまでほぼ無名であったが、留学時にアメリカ合衆国のウィルソン大統領と人脈があると考えられ、さらにかつての大韓帝国皇帝高宗とも繋がりがあることからとされている。

しかし臨時政府は内紛が絶えず、李承晩は弾劾を受け大統領職も追われ、以降はアメリカでのロビー活動に専念する。大戦中も、朝鮮の連合国入りを求めたが、日韓併合を有効と考えるアメリカ初めとした列強各国は、それに同調することは無かった。

1945年8月、日本が降伏すると、ヤルタ協定に基づき、朝鮮半島は北緯38度線を境界に、北部はソ連軍、南部はアメリカ軍による連合国軍政下に置かれることとなった。李承晩は、アメリカでのロビー活動によってアメリカ国内では関係者に知られる存在となっていた。また反共統一を掲げ、他の勢力とは違い、アメリカ軍政を容認していた。

李承晩は、日本統治時代に朝鮮国内で独立運動を行ったことは殆ど無く、地盤も基盤も富も持ち合わせていなかった。これを支えたのが湖南財閥と、それが中心になって組織された韓国民主党だった。また他の反日右派の勢力を恐れた、日本統治時代の対日協力者が李承晩の支持基盤となった。このようなことから、アメリカ軍政庁は李承晩を支持し、その下に政府準備組織の「独立促成中央協議会」を発足させ、その後の1948年、大韓民国が建てられ李承晩が初代大統領になった。

結局朝鮮半島は、日本の敗戦による権力の空白に乗じ、半島内で日本人として暮らしていた多くの朝鮮系日本人をおしのけ、北部は中国軍として戦いソ連に脱走していた金日成が、ソ連の力を背景に朝鮮民主主義人民共和国を建て、南部は、朝鮮半島内にはほとんどいなかった李承晩が、アメリカの力を背景に大韓民国を建てた。南北ともに、連合国側の戦勝国として国際的に認められることもなく、日本軍と戦い独立を勝ち得たわけでもなく、ソ連とアメリカの力による「タナボタ」の独立ということができる。

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