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イザベラは、日本の奥地への第一歩を踏み出した。日本の人々や文化が、自分を受け入れてはくれないのではないかと恐れながらの旅立ちだった。しかし、美しい水田の風景、田植えにいそしむ勤勉な農民、茶屋での娘たちの振舞い、お茶のすがすがしさなどに、日本の心を感じ始めた。
それでも、襖と障子だけのプライバシーがない中での就寝には抵抗があったようで、また、念仏の声、三味線の音、夜回りの拍子木、按摩の笛の音など、耳慣れない夜の町の音には不安を覚えたようだ。

第六信(続き)
粕壁から日光へ

【車夫】
翌朝七時までにご飯を食べ終り、部屋は今までだれも泊まっていなかったようにからっぽになった。八十銭の宿料を払った。宿の主人や召し使いたちが、何度もさようならを言って平伏していた。私たちは人力車に乗り、早いスピードで去った。
最初の休憩所で私の車夫は、(親切で優しい男だが、見かけは恐ろしかった)痛みと吐き気に襲われた。粕壁で悪い水を飲んだためだという。そこで後に残しておくことにした。彼は契約を厳重に守って、変りの者を出し、病気だからといってチップを請求することはなかった。その正直で独自のやり方が、私にはたいへんうれしかった。彼はとても親切で役に立つ男であったから、病気のまま彼をそこに残して去るのは私にとって実に悲しかった。

(中略)

【働く服装】
正午に利根川についた。私は車夫の入れ墨をした肩の上につかまって浅瀬を渡った。それから人力車、たちの悪い駄馬、数人の旅行者とともに平底船に乗って川を渡った。船頭も旅行者も耕作者も、ほとんど着物をつけていなかったが、田畑で働いている裕福な百姓たちは、雨傘のように大きな竹製のとがった笠をかぶり、大きな袖のある着物を帯で絞めることもなく、大きなうちわを腰ひもにつけていた。私たちのあった旅人の多くは笠をかぶっていなかったが、扇子を頭の前にかざして日の光をさけていた。労働者にとっては、服が不便であるというのが一つの原因となって、彼らは着物を着ないという一般的習慣ができたのであろう。和服は歩いているときでさえも、非常に邪魔になるから、たいていの歩行者は着物の裾の位置の真ん中をつまみ、帯をしたりそれを端折って腰にまとうのである。この結果、多くの場合に、ぴったりはいた弾力的な白木綿のズボンが、くるぶしのところまで達している姿が見られる。

(中略)

【快活な農村】
旅をしていくにつれて景色はますます美しくなった。うねうねとつづく平野は、険しい森林の丘陵となり、背後には山脈が雲にかかっていた。村落はこんもりと樹林に囲まれ、裕福な百姓たちは、短く刈り込んだ生垣の奥に、自分の住宅を引っ込ませている。生垣は障壁ともいうべきもので、幅は2フィート、しばしば20フィートの高さもある。どの家の近くにも茶が栽培されており、その葉は摘まれて筵の上で乾かされていた。桑畑が現れてきたので養蚕業のあることがわかる。白い色や黄緑色をした蚕の繭が平らな盆に入って、道路にそって日向に出してあった。たくさんの女性が家の正面にすわって、15インチ幅の木綿の布を織っていた。木綿糸は大部分が英国から輸入され、どの村でも染めていた。用いられている染料は国産の藍である。年寄りも若い人たちも仕事に精を出し、背中の着物に入れて負われている利口そうな赤ん坊は、その肩先からずるそうな眼つきでのぞいていた。七歳か八歳の小さな女の子でさえも、赤ちゃんを背中におんぶして子供遊びに興じていた。まだ小さくて本当の赤ん坊を背におえない子供たちは、大きな人形を背中に結んで同じような格好をしていた。村が無数にあること、人家が立て込んでいること、中でも赤ん坊が多いことで、たいそう人の多く住んでいる地方だという印象を受ける。

【日光への道】
すばらしく天気の良い一日が経過するにつれて、景色はますます変化に富み美しくなってきた。残雪の高い山々が、ふもとの丘陵を見渡していた。その険しい山腹には、暗青緑色の松林や杉林が、落葉樹の春緑に照り映えていた。小さな丘には杉の森があり、高い石段を上ると頂上に神社があった。刈り入れ時の田畑の赤い金色は、麻畑の一面の新緑と好対照をなしていた。バラ色や白色のツツジは雑木林を明るくしていた。やがて広い道路が、巨大な杉の並木道に入ると、日光の神聖な神社(東照宮)に至る街道は木陰になり、ちらちら漏れてくる日光と木陰が草葉をまだらにすると、私は日本が美しいと思い、今まで通ってきた関東平野が、見にくい夢にすぎないように感じられた.

(中略)

【鉢石宿】
私たちはけさ早く小雨降る中を出発した。そして8マイル続く杉の並木の下の坂道を、まっすぐ登って行った。草木はよく繁茂していた。これは暑くて湿気の多い夏の気候と、山岳地方に豊富な降雨量があることから容易に察することができよう。どの石も苔で覆われており、路傍は藻類や数種の銭ゴケで緑色であった。私たちは男体山の前山に入っていた。高さは1000フィートであった。山の姿は険しく、頂上まで森林が続き、たくさんの奔流が騒がしく音を立てていた。鉢石の長い街路は、急な尾根と深い軒のある家が並び、温かい色彩の町であった。その険しい道路にはところどころに階段があり、スイスに見るような美しさがある。町へ入る時は車から降りて歩かなければならない。人力車は引きずって階段を上げるのである。急な尾根、松林、針葉樹の点在する山々によって見られたスイスとの類似性は、急な町の通りを登って行っても、全く消え去るわけではない。

町には木彫りや草木で編んだ、奇妙な籠が至る所で売り物に出ているのが見られる。実に単調で奇妙な街路である。人々は外に出てきて外国人をじっと見つめる。外国人を見るのは珍しいことだと思っているようである。実は1870年(明治3年)、サー・ハリーパークス夫妻は、西洋人として初めて日光を訪れることを許可されて、その御本坊に宿泊したのであった。

それは人形の町である。比較的小さな家には立派な畳が敷いてありすばらしく清潔で凝りすぎるほどきちんとしており、軽くて華奢なものだから、靴を脱いで家の中に入ったのだが、「陶器店に入った牡牛」(はた迷惑の乱暴者)のような気持であった。私の体の重みだけで、すべてが壊れてなくなってしまうのではないかと思った。街路はひどく清潔になっているので、応接間のじゅうたんを泥靴で踏みたくないと同じように、この通りを泥靴で歩きたいとは思わぬであろう。そこには山の静かな雰囲気が漂っている。たいていの店で売られているのは、特産品、漆器、黒豆と砂糖でつくった菓子の箱詰め、あらゆる種類の箱、盆、茶碗、磨いた白木造りの小卓、その他に木の根から作ったグロテスクな品物などである。

【神橋】
私が鉢石で、外国人を接待できるような美しい宿屋に滞在することは、もともと計画の中にはなかった。そこで私は伊藤に日本語の手紙を持たせて、3マイル先の、今私がいる家の主人に使いにだした。その間私は街路を登って行って、はずれにある岩の突き出たところに腰をおろして、だれにも邪魔されずに、最も偉大な二人の将軍(家康・家光)が、「栄光に眠る」山の荘厳な森を見渡していた。下方では、大谷川の本流が夜の雨で水かさを増し、狭い谷間を雷のような音を立てて流れていた。その向こうには巨大な石段が伸びていて、杉の森の中に消えてゆく。その上に日光山がそびえている。急流がその烈しい勢いを二つの石の壁で止められているところに橋がかけられている。長さ84フィート、幅18フィート、鈍い赤色の漆が塗られて、両側の二つの石の橋脚に支えられ、二本の石の横梁によって結ばれている。あたり一面が濃い緑色と柔らかい灰色に囲まれている中に、橋の明るい色はうれしい。しかし橋の建築は少しも堂々たるものではなく、その興味はただそれが、御橋(神聖な橋)であるということにある。

1636年の建造で、昔は将軍や、天皇の使節、1年に2回だけ、巡礼者のためにのみ解放されていた。橋の門は二つとも錠がかけられている。雨と霧がよく降る日光は、壮大でしかも寂しそうである。人力車の道はここで終る。もしこれから先に行きたいと思うならば、歩いてゆくか馬に乗るか、あるいは駕籠でいかなければならない。

【親切な車夫】
伊藤は久しく姿を見せず、車夫はいつも私に日本語で話しかけるので、私は頼りない孤独な気持にさせられた。とうとう車夫たちは私の手荷物を肩に負った。階段を下りた私たちが一般用の橋を渡ると間もなく、金谷さんという私の宿の主人が迎えてくれた。彼はたいそう快活で愉快な人で地面に届くほど深く頭を下げた。
(中略)
宿が見えてくると私は嬉しくなった。ここで残念ながら、今まで私に親切で忠実につかえてくれた車夫たちと別れることになった。彼等は私に細々と、多くの世話をしてくれたのであった。いつも私の衣服からチリをたたいてとってくれたり、私の空気枕を膨らませたり、私に花を持ってきてくれたり、あるいは山を歩いて登るときにはいつも感謝したものだった。そしてちょうどいま彼らは、山に遊びに行ってきてツツジの枝を持って帰り、私にさようならを言うためにやってきたところである。

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