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慶応4年(1868)3月22日、鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長を中心とした新政府は、奥羽鎮撫総督府および新政府軍を仙台に送り、3月29日には、仙台藩、米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に、会津藩および庄内藩の追討を命じた。

仙台藩は、内戦を避けようと尽力しており、会津藩に降伏勧告を行っており、会津藩は一旦は仙台藩に降伏したものの、その後、仙台藩との合意を翻し、仙台藩は会津藩の説得をあきらめた。この当時は、まだ西軍の体制は整っておらず、また仙台領に入った西軍は、勝ちにおごり、乱暴狼藉を働く者も多く、仙台藩では強硬派が多数となりつつあった。

閏4月4日、奥羽14藩は、仙台藩主導で会議を開き、会津藩、庄内藩への赦免の嘆願書を提出し、要求が入れられない場合は新政府軍と敵対するという声明が付けられた。閏4月17日、新政府はこの嘆願書を却下した。閏4月20日未明、仙台藩と福島藩の強硬派の藩士らが、奥羽鎮撫総督府下参謀の世良修蔵を襲撃し処刑し、これにより奥羽越列藩同盟と新政府軍の対立は決定的なものになった。

同日、白河城へ会津兵と新選組が侵攻し、これを占領した。白河は、みちのくと関東の境界に位置する奥州街道沿いの要地で、本来は白河藩領だったが、慶応2年(1866)に藩主阿部正静が転封されて二本松藩の預かり地となっており、藩主は不在だった。

この時期、新政府東山道軍は、宇都宮城の戦いに勝利し、宇都宮を拠点としていた。新政府軍は薩摩藩兵を中心とし、大垣藩兵、長州藩兵、忍藩兵で構成されていた。新政府軍は宇都宮から大田原まで進軍していたが、会津による白河城占拠を知った江戸からの指令で、そのまま白河へと前進した。

閏4月25日払暁、新政府軍の先遣隊数百名は白坂口へ奇襲をかけ、守っていた会津藩遊撃隊・新選組との間で激戦となった。会津の朱雀隊が砲兵とともに駆け付け、側面から新政府軍を攻撃、更にそれに続いて棚倉口から、あるいは原方街道方面からと援軍が駆け付け、新政府軍は敗れ芦野へ撤退した。

翌26日に、白河口総督として会津藩家老西郷頼母が、副総督として同若年寄横山主税が白河城に入城した。また、仙台藩、棚倉藩、二本松藩の増援部隊も到着した。西郷頼母は、白河城南の白河口と、稲荷山に重点を置き、主力部隊と砲兵を配備した。それに対して新政府軍は、伊地知正治率いる薩摩藩と長州藩を中心として、大垣藩、忍藩の部隊を合流させて増員した。兵力は新政府軍が約700名、列藩同盟軍が2,000から2,500名と、兵数では列藩同盟軍が優勢であったが、新式銃など装備は新政府軍側が圧倒的に優勢だった。

5月1日、新政府軍は兵力を3つに分け、本隊は伊地知が率い少数の囮部隊として中央から進軍、野津と川村が指揮する2部隊は左右へ迂回して列藩同盟軍を包囲、退路を断ちつつ進軍し白河城を攻略する作戦をとった。左右の迂回部隊がまず先発し、時間差をつけ遅れて本隊が進軍、小丸山を占拠した。新政府軍本隊は、多数の旗を掲げて大軍と見せかけ、列藩同盟軍が布陣していた白河城南に位置する稲荷山(現在の九番町西裏 – 稲荷公園)に砲撃して注意と兵力を引きつけた。この際、稲荷山に激励に赴いた副総督の横山主税が銃撃され戦死した。西郷は稲荷山へ白河城と他の方面から戦力を逐次投入し、新政府軍本隊へ攻撃をしかけた。

この間、新政府軍別動の2部隊は手薄になった西の立石山と東の雷神山を占拠し、これにより新政府軍は稲荷山を包囲する形となり山上から銃撃を加え、兵力を展開して城下へと突入し白河城を占領した。同盟軍は横山をはじめ幹部多数を失い、約700名の死傷者を出した。新政府軍の死傷者は20名前後と伝えられ、新政府軍の圧勝に終わった。

しかしこの時期、新政府軍は関東を完全に制圧できていなかったため白河城へ増援する余裕はなかった。また、列藩同盟側も、秋田藩などが新政府側につくなどしたことで、主力の仙台藩や庄内藩は白河口に援兵を送ることができなくなっており、5月16日から17日に小規模の攻撃を行った程度であった。

こうした状況の中、仙台藩士・細谷十太夫は、須賀川で奥州の大親分を含む東北地方の侠客・博徒・農民などを糾合して「衝撃隊」を結成。黒装束に身を包んで、長脇差で夜襲を繰り返した。連戦連勝を続ける無敗の衝撃隊は、新政府軍から「鴉組(からすぐみ)」と呼ばれて恐れられた。また、衝撃隊は東北地方の住民から英雄視され、『細谷鴉に十六ささげ~』と歌われた。

6日、列藩同盟軍はようやく兵力の再集結を終え、約2,000の兵力をもって白河城へ総攻撃をかけた。雨中であり両軍とも小銃の着火に手間取ったが、特に列藩同盟軍では旧式の小銃が多く戦力の大きな低下を招いた。列藩同盟軍はさらに27日、28日と連続して攻撃をかけたが、新政府軍はこれを撃退した。6月に入ると、新政府軍は5月6日の今市の戦いや15日の上野戦争での勝利によって関東から旧幕府勢力を駆逐できたため戦力に余裕が生まれ、板垣退助率いる土佐藩兵や江戸の薩摩藩兵が白河城へ増援された。列藩同盟軍は6月12日にも白河城へ攻撃を仕掛けたが、失敗に終わった。

16日、白河に近い平潟に新政府軍1500名が上陸。その後も続々と派兵され、7月中旬には3000の兵を擁するようになった。平潟の上陸軍に呼応して、24日に白河から板垣退助率いる新政府軍が棚倉城攻略のため800の兵を率いて南東へ出発した。棚倉藩は白河と平潟の中間に位置し、両新政府軍が提携するために確保する必要があったからである。新政府軍の動きを列藩同盟軍は予期していたが、むしろ白河城奪取の好機と見て白河へ兵力を集結させ、棚倉藩への増援は行われなかった。棚倉城はその日のうちに落城して、棚倉藩は降伏した。

同月25日、列藩同盟軍は予定通り白河城を奪還すべく攻撃をかけたが失敗。更に7月1日の攻撃にも失敗した。そのような中の7月8日に、庄内藩は白河口救援のため大隊を派遣したが、その途上で秋田藩および新庄藩などが列藩同盟から離反したとの報が入り、同部隊は新庄藩を攻撃し新庄城を落とし、秋田藩の攻撃に向かった。

平潟に上陸した新政府軍は平城を占領。以後、軍を再び2つに分け海岸沿い及び内陸へ進軍を開始、内陸へ向かった新政府軍は三春にて板垣の白河軍と合流し、28日、29日に新政府軍は本宮へと進軍し、本宮の陥落で進退窮まった三春藩は新政府へ降伏。新政府軍の別働隊は二本松城を攻撃し、二本松城は落城した。

二本松城の落城で、新政府軍は白河より北の中通り・浜通りを抑えた。これに狼狽した列藩同盟軍は会津藩領を経由して白河周辺から撤退し、白河口の戦いは終結し、新政府は仙台藩と会津藩を直接攻撃できる態勢が整った。

列藩同盟側は、当初は白河城を拠点とし南下することにより関東地域に残る旧幕府勢力を糾合し、関東地域から新政府軍を駆逐することを目指していた。しかし、リーダーシップの薄弱さと、旧式装備と新しい戦いに未経験だったため、列藩同盟軍は勝機を失い、東北戦争の大勢は決したといえる。

薩長を中心とした新政府軍が、戊辰戦争に勝利したことにより、日本は急速に近代化が進められたのかもしれない。しかし薩長は本来は尊王攘夷であり、開国近代化を目指していたのは小栗上野、勝海舟、榎本武揚らの幕閣と、仙台藩や米沢藩らの奥羽の雄藩だった。幸いなことに、明治新政府は開国近代化の必要性を考え早い時期に「攘夷」を捨てて近代化を成功させた。大局的には争う必要のない中で内戦を戦い、多くの犠牲者を出しただけかもしれない。

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