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田沢湖は、秋田県仙北市にある湖で、最大深度は423.4mで日本で最も深い湖である。古い資料ではカルデラ湖となっており、180万年前から140万年前の爆発的噴火によるカルデラとの説があるが、まだその成因は分かっていない。非常に深いため、真冬でも湖面が凍り付くことはない。かつては、摩周湖に迫る31mの透明度を誇っていたが、発電所の建設と農業振興のために、別の水系である玉川温泉から水を引き込んだ結果、田沢湖は急速に酸性化し固有種であったクニマスは絶滅、水質も悪化し魚類はほぼ死滅してしまった。現在は、酸性水の中和対策が始まり、湖水表層部は徐々に中性に近づき、放流されたウグイが見られるまでになっている。

田沢湖には、古くから龍伝説が伝えられており、そのことから、龍に災いをなすとされる「鉄」を、近年まで湖に入れることはタブーとされてきた。田沢湖で使う舟には鉄釘は使わず、丸木舟が使われていた。このため鉄のおもりを使う調査は近年まで行うことができず、初めて水深が測定されたのは明治42年(1909)になってからだった。

田沢湖には辰子姫の龍伝説が伝えられ、それは、十和田湖、八郎潟の伝説とともに「三湖伝説」として、北奥羽にまたがる壮大な伝説を語り継いでいる。恐らくは、それぞれの地にあった龍伝説が、修験者によって説話化され、統合され各地に広まったものだろう。

この地では、次のように伝えられている。

昔、まだ田沢湖が田沢潟と呼ばれていた頃、辰子という娘が住んでいた。辰子は幼いころに父を亡くし、母と二人暮しをしていた。幼いころから美しい娘で、乙女になるにつれ、その美しさは光り輝くばかりになっていった。辰子を見た者は皆その美しさにみとれ、辰子は近郷近在の若い男たちのあこがれの的だった。

ある日、辰子が小川で髪を洗っていた時、川面に写る自分の姿に思わず見とれてしまい、今は美しくともやがて年をとり、その容貌が衰えるだろうことを思い悩むようになった。悩んだ末に、辰子は神仏に願うしかないと思い立ち、村のうしろの院内山の大蔵神社に百日参りをすることにした。夜にこっそり起き出し、恐ろしい山道を毎晩毎晩通った。

ついに満願の日となり、その日の参詣の時、辰子に語りかける声があった。「北へ一里ばかりのところに霊泉が涌き出ている。雪が解けたらその水を飲むが良い。そうすれば願いはかなうであろう。」というものだった。辰子は喜び、雪が解けるのをひたすらに待った。

やがて春が来て、辰子は近所の友人とお告げにあった北の山へ出かけた。わらびを手折りながら山々を越え、高鉢森のほとりをさまよううち、泉を見つけそこには小川も流れていた。小川には見慣れない魚がたくさん泳いでいた。友人が付近でわらびを採っている間、昼時でもあったので、辰子は魚を捕まえ焚火で焼いて友達の戻るのを待っていた。

しかし、魚が焼けるにつれてそのにおいに誘われ、「一匹だけなら」という気持ちで一匹食べた。しかし、なぜか次から次へと欲しくなる。とうとう焼いた魚を全て食べてしまった。すると、今度は猛烈に咽が乾いてきた。辰子は泉の水を手ですくい飲んだが、のどの渇きは増すばかりで、どうにも乾きが収まらない。気がつけば、 腹ばいになって水をガブガブ飲んでいた。そして、ふと水面に写った自分の姿を見ると、なんとそこには恐ろしい竜の姿が写っていた。

同時に天地がひっくり返るほどの雷鳴がとどろき、ごうごうと風が吹き大雨が降りだした。そして、どどーんという轟音が響いたかと思うと山々は崩れ、そこに大きな湖が出現した。

友人は辰子を探したが見つからず里へ帰り、辰子の母に事の次第を伝えた。母は急いでその場へ行くと、そこには大きな湖が出来ており、母は湖の周りを探し回り、湖に向かって娘の名を呼び続けた。すると湖から恐ろしい龍が姿を現した。母は、「私が探しているのはおまえのような醜いものではない。辰子はどこだ」と龍にせまった。すると龍は元の美しい辰子に姿を変え、彼女の身に起こった出来事を伝え、「このような姿になって申し訳ありません。」と泣きながら母に謝り、別れを言うと湖に入っていった。辰子の母は、深い悲しみの中で、辰子を想い手にしていた松明を投げ入れると、それは魚の姿にかわり、クニマスになったという。

この時期に、秋田の八郎潟には、やはり人間から龍へと姿を変えられた八郎という龍がいた。八郎はもとは十和田湖の主だったが、南祖坊との戦いに敗れ、米代川を下り、八郎潟の主となって住み着いていた。八郎は、いつしか田沢湖の辰子に惹かれ、幾度も田沢湖の辰子のもとを訪れるようになった。

終には辰子もその想いを受け容れ、八郎は辰子と共に田沢湖に暮らすようになった。このため主のいなくなった八郎潟は年を追うごとに浅くなり、主の増えた田沢湖は逆に冬も凍ることなくますます深くなったと云う。