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津軽氏の出自には諸説があり、特に南部側では主筋の南部氏に背いたものと強調するようなもので、津軽氏側のそれは、南部氏は父祖の敵であるといった様なものである。ここでは、その両者の違いを眺めながら、こうであろうといった視点から話を進めていく。

南部氏十三代守行の時代、南部氏は和賀氏、稗貫氏を支配下に組み込み、さらに閉伊郡を平定するなど南部氏の勢力を飛躍的に拡大させた。この守行の末子の則信は、金沢右京亮と称して南部氏の支配下にあった出羽国仙北郡を支配していた。しかし応仁2年(1468)、小野寺氏等の出羽衆の反撃にあい、南部氏は仙北郡支配を断念し、則信は本領の久慈に帰った。

津軽氏の祖とされる南部光信は、この則信と久慈景政の娘とのあいだに生まれた。この仙北郡を失ったことに関して、南部宗家と則信の間に確執が生まれた可能性があり、恐らくはそのことが、光信が種里に移る理由だったのではないかと考えられる。いずれにしても、延徳3年(1491)、光信は現在の鰺ヶ沢町種里に入部した。

光信が入部した津軽地方は、平安期から安倍氏を祖とする安東氏が、十三湊や藤崎城を拠点として支配していた地域で、蝦夷、日本海交易での莫大な経済力を背景にした軍事国家だった。しかし14世紀末からは八戸南部氏は北進政策により次第にこれを圧迫、嘉吉3年(1443)、安東氏は蝦夷地に追い落とされた。しかし安東氏はその後幾度も津軽に上陸し、失地回復をはかったが果たせず、下国安東氏の嫡流は滅亡した。

それでも、下国安東氏一族を据えて再興し、湊安東氏の招きを受けて男鹿に移り、桧山安東氏として勢力を拡大し、津軽回復を図っていた。光信が津軽に移ったのはちょうどこの時期と重なり、桧山から日本海沿いに津軽に侵攻する安東勢を押さえる意味があったと思われる。

種里城は、赤石川流域の集落南西部の標高50~60m程の山に位置する。安東氏は、度々津軽奪還を企て西ヶ浜地方を侵攻していた。種里城は山間部に位置するため、海上からの侵攻に備えて入部翌年の明応元年(1492)に浜館を築き、続いて赤石城を築いて安東氏に対抗した。

この時期、南部氏は内陸の大光寺城や浅瀬石城を津軽平野の支配拠点としていたが、光信の置かれた種里周辺は、安東氏残党が地侍化しており敵中の真っ只中の状況だったと考えられ、勢力拡大することは難しかっただろう。それが光信の南部氏に対する不満となっていったと思われる。

それでも光信が種里に入部してから10年、光信は津軽平野に進出する。文亀2年(1501)、光信は岩木山の東麓の西根城を改修し大浦城と改称し、本格的に津軽の穀倉地帯に進出した。この時期には光信の背後を脅かす安東氏残党の地侍の懐柔に成功し、西津軽、北津軽の領国化に成功したことを意味し、すでに津軽平野に進出していた南部氏一族との軋轢が始まったと思われる。

大浦城は岩木山の南東麓、津軽平野西縁の比高約10mの微高地に築かれた平城で、本郭を中心に東に二ノ郭、さらにその東に三ノ郭、本郭の西には西ノ郭の4つの郭からなっていた。本郭は不規則な方形で、各郭は土塁と水堀で区画されていた。大手口は二ノ郭の南側にあったとされる。現在は、本郭、西ノ郭跡はリンゴ園や畑に、二ノ郭跡には津軽中学校が建っており、遺構はほとんど残っていない。

津軽での地歩を確実なものにした光信は、大永6年(1526)67歳で没した。光信は死の直前に「甲冑姿のまま、東南に向けて、立たせたまま、種里城の一郭に埋葬するよう」に命じたと伝えられている。東南の方向とは、南部宗家の三戸を見つめてのことだったのだろうか。光信が埋葬された墓所には霊力があると伝えられ、かつて領内に悪疫が流行した時に祈祷すると、たちどころに終息したと云う。

跡を継いだ盛信は、家人、町方、寺社などを大浦賀田へ移住させ町づくりを行い大浦の姓を名乗るようになった。これに対して天文2年(1533)、津軽支配を強めようとする南部安信が大光寺城を攻略し、さらに大浦城に攻め寄せたが撃退され、盛信と和を講じた。しかしその一方では、石川城を修復し、一族の高信を据え津軽支配の拠点とし、大光寺、浅瀬石、和徳の諸城を津軽氏に対する押さえとし布陣を固め、次第に大浦氏と南部氏の津軽をめぐる対立構造が出来始めた。

天文7年(1538)、盛信が死去すると大浦氏の家督は甥の政信が継いだが、政信は和徳城主小山内氏との戦いで討死、その後は嫡子の為則が継いだ。しかし為則は病弱で嫡子がなかったため、甥の為信と娘を娶わせ大浦氏の家督を譲った。当時、南部氏は一族の九戸氏との軋轢の中にあった。為信はこれを好機として、三戸南部氏からの津軽独立を目指し動き始める。