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歴史的には、文治5年(1189)、奥州合戦により平泉藤原氏が滅亡し、その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開き、鎌倉時代が始まったとされるが、実際にはその後も、奥羽の地各所には平泉勢力が残存し、同年12月には、大河兼任が出羽で挙兵し、一時は平泉を奪取するなど大きな騒乱となった。

大河兼任は、出羽国北部の八郎潟沿岸の大河(現秋田県五城目町大川)の豪族で、一説には、安倍貞任の弟を祖とするともされ、この時期には藤原泰衡の郎党として、八郎潟周辺を領していたと思われる。

文治5年(1189)、奥州合戦に勝利した源頼朝は、9月に葛西清重を奥州総奉行に任命し鎌倉に帰還した。陸奥国内では奥州藤原氏に従属していた武士団が土地を没収され、清重を始め多くの東国武士が地頭職を与えられた。

戦場とならなかった出羽国内陸部では、旧来の在地豪族が勢力を保持しており、東国武士と在地勢力の間に軋轢が生じるようになる。12月になると、死んだはずの源義経や木曾義仲の子息、藤原秀衡の子息が同心して鎌倉へ進軍するという風説が流れ、大河兼任が挙兵した。

兼任は、源義経と称して出羽国海辺庄に現れ、また木曽義仲の嫡男、朝日冠者義高と称して同国仙北郡で挙兵するなど、鎌倉方を撹乱していた。そしてついに、「未だ主人の仇を討った例はないが、その例を始める」として挙兵した。鎌倉方の地頭から圧迫されていた在地豪族たちがこれに加わり、7千余騎の軍勢となり、大河勢は、男鹿地方の地頭橘公業の拠点を襲撃し、橘公業は逃亡した。

大河勢は多賀城の国府を目指し、八郎潟の凍結した湖面を進軍したが、氷が割れ多くの兵が溺死したとされる。しかしそれでも兼任は軍を立て直し、挙兵に応じなかった由利維平を攻めてこれを出羽の大森山で打ち破り、維平は討ち死にした。

由利維平は大河兼任とともに、平泉藤原氏の郎党として、由利地方を領していた。奥州合戦においては、藤原泰衝の命により、出羽口を守っていたが、鎌倉軍に敗れ生虜りになった。捕虜の身でありながら、堂々とした態度で、尋問にあたった梶原景時の無礼をたしなめ、畠山重忠が礼を尽くすと尋問に応じた。それを見ていた源頼朝も「勇敢の誉れ有るに依って」と罪を許し、由利地方の地頭となっていた。

由利維平を敗った兼任は、津軽の地頭宇佐美実政らを攻め滅ぼし、怒濤のような勢いで、仙北地方から陸奥に入り、平泉を経て栗原郡一迫方面まで進出した。これに対して、頼朝はそれぞれ海道を千葉胤正を、山道を比企能員を大将軍に任じて大軍を派遣。さらに上野・信濃の御家人を増強し、足利義兼に任せた。孤立していた葛西清重らはこれらの鎌倉勢と合流。栗原郡一迫で合戦に及んだ。

多勢に無勢、戦いに敗れ、わずか五百騎ばかりになった兼任は、それでも平泉・衣川を前に陣を張り、合戦に及んだが、この戦いで大河勢は壊滅状態となり逃亡した。しかし兼任の執念は、すさまじいものだったようで、外ノ浜と糠部(ぬかぶと)の間、現在の青森市浅虫付近の「多宇末井の梯」があるあたりの山中に、隠れ山城を築き、抵抗を続けようとしたが、ここも足利義兼に急襲され兼任は行方をくらました。

兼任は各地を転々とした後栗原に戻り、信奉する源義経ゆかりの栗原寺に向かったが、錦の脛巾を着て金作りの太刀を帯びた姿を地元の樵に怪しまれ、数十人に囲まれ斧で斬殺されたという。首実検は千葉胤正が行い、約3ヶ月に及んだ反乱は終息した。

この大河兼任の乱は、時系列的に混乱が見られるが、これは、兼任に同心する者や、乱に触発された在地武士の反乱などのためかと思われる。兼任が多宇末井から栗原に戻ってきたとするのも不自然であり、兼任の最後の足跡は現在の青森県浅虫の多宇末井の地と考えるのが妥当だろう。

この源義経を名乗った大河兼任の乱の、平泉から遠野、三陸海岸沿いに八戸、青森、竜飛まで続く「義経北行伝説」は、この大河兼任やその将兵たちの逃避行の伝説がモチーフとも考えられる。

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