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南部政直は、盛岡南部の初代藩主、南部利直の次男である。利直の跡は正室武姫の子で三男の重直が継いだ。

庶長子の家直は16歳?で早死しており、これは、三男の重直を嫡子とすることによる南部の内紛を避けるために、毒殺、もしくは謀殺されたのではないかとも考えられるが、家直に関してはあまりにも資料が少なく、これ を断ずるには無理がある。

しかし、次男の政直の場合は、時代状況的には毒殺された可能性が強い。政直の死に関しては、「変死」とか「非業の死」、としての記述が多く、政直の治めていた花巻には、花巻の重役の柏山明助とともに「毒殺」 されたとする次のような説が伝わっている。

「江戸へ参府する途中花巻城に泊まった利直は、以前から伊達氏と通じている、との疑いのあった岩崎城代柏山明助を呼び、毒殺しようとした。このとき花巻城主政直が毒見の為に事情を知りながら毒入りの酒を飲む。その晩、政直と明助は苦しみながら絶命した。利直はお家のためとはいえ、我が子を手にかけたことを大変悲しみ、政直の霊を弔うため、荼毘に付した跡地に「天厳山 宗青寺」を建立した」

南部政直は、慶長4年(1599)、当時の南部氏の本拠城の福岡城で、南部利直と側室の間に生まれた。政直は、次男であったが、嫡子は三男で正室の武姫の子の重直となり、武姫の悋気もあり、慶長18年(1613)、元服して間もない14歳の時に花巻城に入ったと思われる。

政直の毒殺の伝承に出てくる柏山明助は、豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡した葛西氏の重臣の一族で、苦難の果てに南部氏の忠臣、北信愛に迎えられた。和賀氏の旧家臣らが伊達政宗の後ろ盾を得て起こした和賀一揆の際に、圧倒的無勢の花巻城に十人の家臣を引き連れ入城し,老将信愛の指揮のもと和賀勢を撃退した。

明助の母親は和賀氏の出身で、岩崎一揆の首謀者の和賀忠親は義兄にあたる。戦国の習いとはいえ、かつては和賀氏の本城だった花巻城をめぐっての岩崎一揆は、親戚同士が相争う皮肉な戦いだった。明助は情けある知勇の将だったようで、和賀忠親の遺児を、一関の隠れ里に匿った。また、旧領の領民からも慕われていたようで、南部政直による治世でも、これをよく補佐していた。

しかし柏山明助はキリシタンだった。世はすでにはっきりと切支丹を抑圧する方向に動いていた。徳川に忠節を尽くすことでしか生き延びることが出来ない世になっており,南部藩はそれに逆らうことなどできるわけも無かった。しかし隣接する伊達領では、キリシタンには比較的寛容であり、藤沢の大籠や狼河原では、キリシタンによる製鉄が盛んに行われ、また水沢の福原の邑主の後藤寿庵は、当時の国内を代表するキリシタンだった。

後藤寿庵もまた葛西の重臣の一族で、伊達政宗に見いだされ、福原の地に所領を得て、福原には葛西の旧臣やキリシタンらが集まっていた。そこには小さいながら天主堂やマリア堂も建てられ、時折、ガルバリヨら宣教師を招き、ミサも行われていた。柏山明助の所領の岩ケ崎と、後藤寿庵の福原の地は、直線距離で4里ほどのわずかの距離であり、明助がミサの際などには福原を訪れていただろうことは容易に推測できる。

しかし、元和5年(1619)には元和の大殉教がおき、これより切支丹に対する弾圧は一気に強くなる。翌元和6年(1620)には、それまで切支丹に対しては比較的寛容な政策をとっていた伊達藩も切支丹弾圧に踏み切り、福原の後藤寿庵は伊達藩を出奔、元和8年(1622)には長崎大殉教、翌年には江戸大殉教と続く。

南部藩ももちろん例外ではなかった。元和10年(1624)柏山明助と南部政直の毒殺にいたる。明助に対する「伊達藩と通じている」との嫌疑は、明助がキリシタンとして福原の後藤寿庵と親交があったことをさしているのだろう。また南部政直が、明助が毒を盛られたときに「事情を知りながら毒入りの酒を飲む」とあるのは、政直自身もキリシタンであり、一緒に殺されたということかもしれない。またあるいは、南部利直の「子殺し」に対して、領主に対する遠慮からトーンを弱めたと言うことかもしれない。

いずれにしても、南部政直と柏山明助は、南部利直によって毒殺されたと言うことは真実であろうと思われる。しかしながら、政直の幼名は、南部利直の幼名と同じ「彦九郎」であることから考えて、少なくとも 政直の生誕時には、利直の強い思い入れがあったに違いないと思われる。この花巻の伝承にある最後のくだりの、「利直はお家のためとはいえ、我が子を手にかけたことを大変悲しみ、政直の霊を弔うため、荼毘に付した跡地に「天厳山 宗青寺」を建立した」というのは真実であったろうと思われるし、そう思いたいものだ。