福島城址は、十三湖の北岸に面する標高約20mの台地上にある。面積は約62万5000㎡で、内郭とそれを取り巻く外郭で構成される。外郭は一辺が約1kmの三角形で、谷を利用した堀と土塁が残っている。内郭は一辺が約180mの方形で、四方に虎口を配し、大手口は南側で、周囲を水堀で囲んでいる。

現在内郭は整備されており、また国道339号沿いに、壮大な堀跡と土塁跡が見られ、奥には門跡と井戸跡が残っている。

築城時期は、平安時代後期の10世紀後半とみられる。この時期は、東北地方北部から蝦夷地南部にかけて、盛んに住居群を堀で囲む防御性集落が造られている。出土土器から、この地の蝦夷により築かれたチャシが始まりと考えられる。

その後、藤原秀衡の弟藤原秀栄は分家してこの地に住まい、十三氏を名乗り、平泉滅亡後もこの地を支配した。この地は寒冷地であり稲作には適さない地であったが、平泉時代から蝦夷地との交易を行い、中央統治の力がおよばない独自の政権を確立し繁栄していた。

しかし、十三氏三代秀直の頃、執権北条義時は、十三湊を直轄地にしようと、安東貞季を津軽外三郡の蝦夷管領に任命した。当時、安東氏は藤崎城を居城としており、津軽地方では最も勢力があった。貞季は、その拠点として福島城の北方の小泊に城柵を築いた。このことに十三秀直は激怒し、小泊の城柵を攻め落とし、その後、安東貞季の居城の藤崎城に向けて進軍し、寛喜元年(1229)、両軍は平川沿いの萩野台で合戦となった。

当初は十三勢が優勢だったが、大雨により立ち往生していたところへ、加勢を得た安東勢の奇襲を受けて形勢は逆転し、安東勢が勝利し、十三秀直と一族は、蝦夷地へ流罪となり没落した。これにより安東氏は十三湊を手中にし、福島城を整備し栄華を極めた。安東氏は、蝦夷地から本州の日本海沿岸まで貿易を広げ、安東水軍などとも呼ばれ十三湊には一大都市が築かれ活況を呈したと伝えられる。

しかし、元応年間(1319~21)、本家の福島城主と庶家の藤崎城主らによる管領職、領地、跡目争いを発端として「津軽大乱」が起き、また暦応3年(1340)、十三湊を大津波が襲い、当時貿易により繁栄していた十三湊は壊滅し、応永5年(1398)には砂丘と化したと伝えられる。近年の発掘調査では大津波の痕跡は見つかっていないと云うが、いずれにしてもこの時期に安東氏は凋落した。

安東氏は南部氏とともに南朝方に属したが、応永18年(1411)、三戸の南部守行が陸奥守に任ぜられると、これを機として南部氏は津軽統一に乗り出し、安東氏との仲は険悪になった。南部義政のとき、南部氏は当時の安東氏当主の盛季と婚姻関係を結んだが、義政が没しその弟である南部政盛が跡を継ぐと、嘉吉3年(1443)頃、政盛は盛季に見参のためと称し福島城に入り、奸計をもって一晩で福島城を奪取した。福島城を追われた盛季は後方の唐川城に退き、さらに柴崎城を経て蝦夷地に逃れた。

以後安東氏は、平安時代以来の父祖伝来の地である津軽には戻れなかった。その後福島城は廃城になったと思われる。

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