細谷十太夫直英は、石巻の鋳銭場の役人で、50石取りの下級武士であった。

1867年、徳川慶喜は大政奉還を行ったが、薩摩・長州の反幕府勢力は朝廷に働きかけ、王政復古の大号令が発せられた。翌1868年1月の鳥羽伏見の戦いでは、錦の御旗を掲げた薩摩、長州藩兵を中心とした新政府軍が幕府軍を圧倒し、2月には江戸へ向けて進軍を開始、4月には江戸城は開城した。

当時の仙台藩は、アジアの植民地化を進める列強諸国が看視している中での内戦は避けるべきとの考えから、戦争の回避に奔走していた。しかし、新政府は、仙台藩、米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と新政府軍部隊を仙台に派遣した。新政府軍は、仙台城下で強盗、強姦などの乱暴狼藉をはたらくものが多く、仙台藩士らは怒りをつのらせていた。

新政府は、仙台藩に対し強硬に会津出兵を迫り、やむを得ず仙台藩は会津藩境に出兵したが、その間も会津藩と接触し、会津藩は一旦降伏した。仙台藩は、奥羽諸藩とともに会津藩、庄内藩赦免の嘆願書を新政府に提出し弁訴したが、参議世良修蔵らはこれを許さず、仙台藩、米沢藩を朝敵とし、奥羽一円を掃蕩する計画が世良の密書により発覚した。

この時期、細谷十太夫は、福島や二本松で目付として奥羽他藩との連絡調整に当たっていたようだが、激高する姉歯武之進らの強硬派を抑えることは出来なかったようで、仙台藩強硬派と福島藩士らは世良を福島の金沢楼で捕縛して処刑した。これにより、奥羽諸藩は列藩同盟を結成し、新政府軍に抗することを決した。

西軍の動きは素早く、列藩同盟軍が守る白河城は攻められ、5月1日には白河城は西軍の手に落ちた。十太夫はこの敗戦を聞くや、西軍と戦うため須賀川で民兵を募集、博徒、侠客ら57人を集め「衝撃隊」を結成した。

当時の奥羽諸藩は装備も旧式で、主な装備は火縄銃と刀と槍という有様で、新式銃を装備し洋式訓練を受けた西軍に各所で敗北を重ねていた。衝撃隊の装備も十分なものであるはずもなく、黒装束をまとい夜戦を中心とした戦いを行った。そのため「烏(からす)組」と呼ばれるようになり、後には実際に烏を連れ歩いたという。十太夫は隊旗にも自身の陣羽織にも八咫の烏を描いた。

烏組は、槍と刀を武器に夜襲をしかけ、神出鬼没の戦いぶりで、30余戦ことごとく勝利したという。その勇猛果敢な戦いぶりは、棚倉藩士16人の部隊「十六ささげ」とともに「細谷からすと十六ささげ、なけりゃ官軍高枕」とまでうたわれ恐れられた。

しかし烏組の奮闘も空しく、棚倉、二本松は落城、三春藩、秋田藩などは脱盟し、相馬藩も降伏した。戦線は仙台藩境に迫っていた。十太夫の烏組は、浜街道の駒ヶ峰城にこもり戦い、その落城後の閏9月に旗巻の地に移った。

旗巻の地は、相馬中村城を眼下に望むことが出来る仙台藩の重要な戦略拠点であり、烏組のほか、仙台藩勢を主として庄内藩や米沢藩の応援も得て、兵1千200が入った。砲台場を築き大砲4門を据えて迎撃態勢をとった。

新政府軍は山が峻険のため攻めあぐねていたが、夜襲により一気に山上に迫る勢いを示し、両軍は激戦となった。西軍は仙台藩勢らの後方を遮断する動きにでたことから、東軍は陣屋を焼き一旦退却した。翌日、十太夫らは態勢を立て直し、再び戦おうとしたが仙台から降伏の知らせが入り、各藩はそれぞれ兵を引き上げ、仙台藩にとってはこの戦いが戊辰戦争最後の戦いになった。

この戦いの後に仙台藩主伊達慶邦に呼び出された十太夫は、戦死者を弔うために墨染めの法衣を軍服の上から纏い、両刀を差すという格好で登城し、藩主伊達慶邦に謁見した。慶邦から「武一郎」という名を賜り、武功一番と褒め称えられたが、十太夫は戦死者を弔いたいとこれを固持したという。

このような時期に、仙台領石巻に榎本艦隊が入った。また、星恂太郎率いる仙台藩で無傷の精鋭部隊である額兵隊の200名ほどが、降伏を良しとせず、石巻で榎本艦隊と合流した。これらの諸部隊は、北上川を挟み新政府軍と決戦の構えを見せていた。

しかし奥羽列藩同盟は瓦解し、仙台藩は降伏し、すでに大勢は決していた。十太夫は仙台藩の命を受け、星恂太郎らを説得し、石巻での戦いを回避しようと努めた。新撰組の土方歳三や、額兵隊の星恂太郎らと激論を重ね、十太夫は大量の食料等の物資を提供することで、榎本艦隊が蝦夷地に向かうことを承諾させた。しかし星恂太郎ら額兵隊はその説得に応じず、榎本艦隊と行動をともにすることになった。この十太夫の説得により、石巻が戦火に巻き込まれることは回避でき、今でも十太夫は石巻の恩人として伝えられている。

烏組も解隊となり、十太夫は烏組の生き残りを引き連れ、王城寺ヶ原などで開拓を行い、また陸軍少尉として西南戦争に従軍、日清戦争では軍夫千人長として参加し、その後も満州や台湾にわたり多方面で活躍した。

晩年は、仏門に入り、かねてより敬慕していた林子平の墓所である、この龍雲院の住職となった。明治40年(1907)、62歳で没した。

 

 

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