岩手県花巻市栃内
2017/05/14取材
是信房(ぜしんぼう)は、鎌倉時代の13世紀初め、岩手県に初めて浄土真宗の教えを広めた。是信房は、三位源頼政の曾孫宗房という説と俗名吉田大 納言藤原信明(しげあき)とする二つの説 があるが、この地では藤原信明と伝えられている。
是信房は、無実の罪にとわれて越前に配流されたが、赦免された後、思うところあり京には帰らず、常陸小島に親鸞聖人を尋ね、その教えを受けて弟子となり、後年「親鸞二十四輩」の一人に叙せられた。
親鸞に従い常陸の稲田郷に滞在したが、親鸞から東北地方の布教を命ぜられ、建保3年(1215)、従者の千原町左衛門と橋本左内とともに、宗門教化のため、相次ぐ戦乱で荒廃した奥州に下向した。当初は、和賀郡の一つ柏村に滞在し、その後、紫波町彦部にくだり、その地の豪農彦太夫のもとに旅装をといた。
彦部で本格的な布教をはじめ、がはじまる。その結果、彼のもとには多くの信者が集まるようになった。その後の布教については明らかでないが、この地域一帯で50年間にわたり布教に努め、笹間、和賀地区には、是信房事績にまつわる伝承地が多く点在し、功徳の大きさを物語る。
文永3年(1266)、86歳で入寂、この草庵のあった栃内の地で荼毘にふされ、その後「上人塚」と呼ばれ、村人らにより大切に守られてきた。紫波町彦部には、その墳墓と伝えられるものが現存している。