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座敷童子(ざしきわらし)の伝説は、全国各所に存在するが、岩手県の遠野周辺や、二戸市周辺に伝えられる話は柳田国男らが紹介したこともあり、特によく知られている。ここでは、かつての南部藩の秘湯で三百数十年の歴史を持つ金田一温泉の「緑風荘」に伝えられる伝説を紹介する。

この地での座敷わらしは、5、6歳くらいの小童で、髪はおかっぱの男の子のようだ。この地方でも、家によっては、振袖を着た女の子という説もあるようだ。

悪戯好きで、小さな足跡を灰やさらし粉の上に残し、夜中に糸車を回す音を立てるともいわれ、奥座敷で御神楽のような音を立てて遊ぶことがある。また家人が一人で縫い物をしていたとき、隣の部屋で紙ががさがさする音や、鼻を鳴らす音がするので、板戸を空けると誰もいないなどの話が伝わっている。

姿は家の者以外には見えず、子供には見えても、大人には見えないとする説もある。子供たちの数を大人が数えると、本来の人数より1人多いが、大人には座敷童子がわからないので、誰が多いのかわからないといった話もある。

またこの座敷わらしは、この地では家の盛衰を司る守護霊と見なされてもおり、座敷童子がいる家は栄え、座敷童子の去った家は衰退すると伝えられている。

この地の伝説によると、およそ670年くらい前の南北朝時代、南朝の忠臣、藤原藤房(万里小路藤房)は、南朝の敗北により、足利尊氏に追われ現在の東京都あきる野市に身を隠し、さらに北上を続け、現在の岩手県二戸市にたどり着いた。

この地は、南朝方の有力大名だった南部氏の支配する地で、藤原藤房ら一行は、この地に取りあえず落ち着き旅の疲れを癒したことだろう。しかし、道中、二人連れていた子供の内、当時6歳だった兄の亀麿が旅の疲れからか病で倒れ、幼い生涯を閉じた。

この地の伝説では、藤原藤房ら一行は、この地をついの地として、「緑風荘」は藤原藤房を祖とし、
亀麿は息を引き取る際に、守護霊となり、『末代まで家を守り続ける』と言って息を引き取ったという。その後、時折、奥座敷に現れるようになり、その姿を見たり、不思議な体験をした人は、大変な幸運に恵まれると伝えられる。

しかし、津軽に伝わる話では、藤原藤房ら一行は、南部氏の庇護を受けて現在の五所川原市に金木館、飯詰城を築き、朝日氏を名乗り、浪岡の北畠氏とともに勢力を拡大した。しかし天正16年(1588)津軽統一をめざす津軽為信により飯詰城は攻められ、朝日氏は滅亡した。