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黒沢尻氏や稗貫氏を巻き込んだ和賀一族の内紛では、奥州管領の斯波氏がそれを収める立場だったが、実質的には南部氏が鎮圧軍の指揮をとったようだ。和賀氏の内紛が収まった時点では、この地域は斯波氏の頭越しに南部氏が牛耳ることになり、その結果斯波氏は、郡内諸臣の信望をも失い、ついには三戸南部氏の攻勢にさらされるようになる。

下剋上の時代に入り、足利将軍家が織田信長の手により葬られ、高水寺斯波氏も戦国の荒波の下にさらされていた。斯波詮真の代には、南部晴政と戦って敗れ、実質的には南部氏の従属下に置かれた。

戦国時代後期の元亀・天正の頃(1570~)、大巻館の河村氏は斯波氏の有力な家臣だった。しかし天文6年(1537)、南部氏は南下を開始し、斯波・稗貫・和賀氏らは連合してこれにあたったが、天文9年(1540)、南部高信を総大将とする南部勢に岩手郡滴石城を攻略され、繰り返される南部氏の南下に対して斯波氏は防戦につとめた。

元亀3年(1572)、南部氏はふたたび志和郡に侵入し、斯波氏は見前舘で防戦につとめたが敗北し南部氏と和睦した。この和睦は斯波氏にとって屈辱的なもので、斯波氏は南部氏に見前舘を割譲し、さらに、娘婿に九戸政実の弟の弥五郎(高田吉兵衛)を迎えるというものだった。

天正10年(1582)に南部晴政の後継を巡り、南部一族で家督相続を巡り争いが起こると、斯波詮直は奪われていた岩手郡にすかさず侵攻し奪還した。 ところが詮直自身は、遊興に耽り政務を顧みないことも多く、このような状況にあっても、斯波御所詮直は家臣の諌めもきかず日夜遊興に耽るばかりだった。

その後、南部氏宗家を信直が継ぐと南部氏の南進はさらに激しくなり、天正14年(1587)に、斯波氏の女婿になっていた高田吉兵衛が斯波氏との不和により出奔すると、南部信直はこれを庇護し、斯波方の目と鼻の先の中野館に配した。これに憤った斯波氏は中野館を攻撃したが敗退、 斯波家内部に動揺が拡がり南部方に内応する者も出てきた。

天正16年(1589)、斯波氏の家臣の岩清水右京が叛乱をおこし、これに対し斯波氏は斯波詮直自らが出陣したが、南部信直はただちに南部軍を南下させた。

このため、詮直みずからが兵を率いて岩清水城を攻撃した。この斯波氏の混乱をみた南部信直は、天正 16 年(1588)みずからが出陣して北上川を越えて陣ヶ岡に兵を進めた。詮直は兵を高水寺城に退くと、信直は岩手郡の諸勢を先陣として高水寺城を攻囲した。斯波氏は混乱分裂し、これが命取りとなり滅亡につながった。この混乱の中で河村党も分裂し、大巻氏らは主家滅亡に際しても参陣した形跡はない。

南部氏の攻撃に斯波勢も防戦につとめたが、ついに高水寺城は落ち、斯波詮直は落ち延びた。
詮直は、山王海や大槌などを転々とし、関ヶ原の戦いの時期の、和賀一揆に斯波氏の残党を率いて参加したが、南部勢に敗れた。

その後、詮直は南部氏に召し抱えられ五百石を給与されたといい、大坂冬の陣には従者8人を率いて従軍したようだ。しかし、旧臣の下に立つことを恥じ、暇を願い、京都に止まり浪人となる。その子孫三郎詮種は二条殿下に仕え、諸大夫の列に入ったという。