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宮城県大崎市鳴子温泉字尿前

震災前取材

この地は、陸奥と出羽の国を結ぶ交通の要所であり、軍事上においても重要な位置を占めていた。戦国時代の大永年間(1521~1528年)、この地を支配していた大崎氏は、尿前 (しとまえ)に「岩手の関」を設け守りを固めていた。

当時、出羽では最上、伊達氏らの対立が続き、その波及を恐れた大崎氏は国境の警備を強め、「岩手の関」に小屋館の番所を設置し、遊佐勘解由宜春に守らせた。

遊佐氏は、尿前地区に田畑を開き、一族や家臣を居住させて鳴子村の礎を作り上げた。遊佐氏は、大崎氏没落ののち帰農したが、天正19年(1591年)に旧大崎領が伊達政宗の領地となった後も、引き続き国境の警備にあたり、小屋館は伊達の支配後、「尿前境目」と呼ばれた。

元和年間(1615~1624年)の末になって、遊佐氏五代但馬宣兼の時に、山上の番所が尿前の遊佐氏屋敷の内に移され、「尿前の関」と呼ばれるようになった。遊佐氏は、八代権右衛門の時まで独力で警備にあたっていたが、寛文10年(1670年)になると、境目の見張りを厳重にする目的から「尿前番所」が設置され、侍身分の役人が取り締まるところとなった。これは、当時の「寛文事件」による影響と考えられる。

「尿前番所」は遊佐氏の屋敷内にあり、出羽街道中山越はこの屋敷の中を貫いていた。裏門と表門には遊佐氏と村人が配置され、夜中は鍵をかけて通行不能にした。付近の約140坪の敷地に、岩出山伊達家の役人が詰める番所が築かれ、中には鉄砲や槍、手錠、首筒が備えられたという。幕末ごろの屋敷は、間口40間、奥行44間、面積1,760坪、周囲は石垣の上に土塀がめぐらされ、屋敷内に、長屋門、役宅、厩、酒蔵、土蔵、板倉など10棟の建物があった。

屋敷周辺には尿前の宿駅が設けられ、人馬の補充や継立が行われた。明治9年(1876)には、尿前の宿駅の規模は「東西一町二十間、南北三十八間、道幅二間乃至二間半。戸数十三戸。人数男三十一人、女四十八人、総計七十九人」と古書に記されてある。

元禄2年(1689)5月15日(陽暦7月1日)、松尾芭蕉と曽良は、通行手形の用意がないまま尿前から中山峠越えを目指すこととなった。事情を説明すれば通過できると思っていたようだが、他国者の出入りに対する取り締まりは相当に厳しいもので、奥の細道本文には以下のように書かれている。

 なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。

 

・義経伝説
亀割峠で亀若丸を生んだ北の方を始めとした義経一行は、瀬見温泉を経てようやくこの地にたどり着いた。ここから先は藤原秀衡の勢力化にあり、これまで一行の緊張感を感じていたのか、生まれてから尿をしなかった亀若丸が、この地で初めて尿をしたという。そのことから、この地を尿前(しとまえ)と呼ぶようになったと伝えられる。