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宮城県仙台市青葉区川内追廻

震災前取材

仙台城址三の丸・二の丸付近

仙台城址本丸部

 

別名:青葉城

現在の宮城県仙台市の青葉山にある山城。慶長年間に伊達政宗が築造してから廃藩置県、廃城令まで約260年に渡り伊達氏代々の居城であった。

仙台城の本丸は海抜115~140mの丘陵性台地に立地し、東西約243m南北約265mの広さがあって、他の城郭の本丸と比較すればかなり大きい方である。東と南は断崖、西は御裏林と呼ばれる深い原生林で守られ、すぐれた防禦性をもっていた。

現在の青葉山には、伊達氏以前から城があり、初めは千体城、後に千代城と称し、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて島津氏が陸奥守として居城し、室町時代末期には国分荘の国人国分氏が居城したとも伝えられている。伊達政宗の叔父でもある城主国分盛重が政宗と対立して出奔すると、千代城は廃城となった。

政宗は、関ヶ原の戦いの後、徳川家康の許しを得て千代に居城を移すことにした。慶長5年12月24日(1601年1月28日)に青葉山に登って縄張りを始め、地名を仙台と改めた。彼が築いた仙台城は、本丸と西の丸からなる山城であり、天守台はあるが天守閣は持たない。これらの点で時代の流行に背を向けたが、結果として仙台城は、ビスカイノをして「日本の最も勝れ、又最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城となった。

慶長6年(1601)の工事着手から大広間の完成する慶長15年(1610)まで約10年でほぼ全容が整い、大広間を含む広大な御殿、5ヶ所の櫓、大手門に匹敵する規模を有する詰の門などのほか、御懸造りと呼ばれる崖に突き出た数奇屋風書院、能舞台など、すぐれた建築群が偉容を誇っていた。

しかし、世が泰平となると、山上と麓の往来は不便であったため、伊達忠宗が寛永14年(1637年)に二の丸造営に着手し、翌年完成させた。本丸と同じく広瀬川の内側にあるが、土地は平坦な場所である。伊達家の当主はここに居住し、政務もここで執られた。時期は不明だが、これと前後して大手門脇、青葉山の麓に三の丸が作られ、本丸は伊達藩の行事の時だけ使われた。明治維新後まもなくすべての建物が取り払われた。

幾度となく、地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく要塞としての役割を終え、その後明治初期から大正にかけてその殆どが失われた。数少ない遺構、大手門、隅櫓、巽門は戦火に見舞われ焼失。現在では復元された隅櫓を残すのみである。 青葉山にあることから、雅称して青葉城(あおばじょう)とも雅称する。

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