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宮城県仙台市若林区連坊一丁目…栽松院

  栽松院には、旧伊達藩家臣の墓地が多くある。この中に寛文事件に関して処刑された、伊東七十郎の墓がある。七十郎の墓は、伊東氏の採地だった東松島市にもある。 伊東七十郎重孝は、伊達政宗に仕えた名将伊東肥前重信の孫にあたる。伊達騒動(寛文事件)のおりに、伊達家を私しようとする伊達兵部に対し、これを討たんとしその機会をうかがっていた。しかし露見し遂に捕らえられ獄に投ぜられた。獄中では実に三十三日間抗議の断食を行い、『我が霊魂三年の内に逆賊を滅すべし』と絶命の言葉を残して、寛文8年(1668)斬刑に処せられた。齢36歳。 その死の3年後の寛文11年(1671)、伊達兵部派の原田甲斐は、江戸の酒井邸で刃傷に及び斬り死にし、伊達兵部も土佐に流されることになる。その結果、伊東氏の名誉は回復され、重孝の忠烈が称えられ、四代藩主伊達綱村により伊東家は再興した。 七十郎の墓石の中央の戒名が刻されている部分が少しくぼんでいる。ここには当初は、「罪人」であることが刻されており、名誉が回復された後に削り取られ、改めて戒名が刻されたと伝えられる。