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宮城県白石市福岡深谷字児捨川向

この地には、この地方の白鳥信仰に関わる伝説が伝えられる。

日本武尊命は東征の折にこの地にしばらく住まった。その折に、この地の長者の娘の玉倚姫(タマヨリヒメ)と恋に落ちた。しばらくして二人の間には男の子が生まれたが、武尊は「都へ帰還せよ」との命により都へと旅立った。

姫と皇子は武尊の帰りを待ったが、遠い都の武尊を思い慕い、ついに「白鳥になって都に飛んで行こう」と、皇子とともに川に身を投げ白鳥になり飛び去ったと云う。

また、次のようにも伝える。

橘豊日尊(後の用明天皇)が東国巡行のおりに、赤坂長者の娘で世にも稀な美女であり、性格もよい玉倚姫(タマヨリヒメ)と恋に落ち た。ある夜、姫は白鳥が訪れ自分の胎内に入る夢を見て、間もなく皇子を産んだ。 尊はいたく喜んだが、「都へ帰還せよ」との命を受け、命は都に旅立った。

何年経っても戻らない命を待つうちに、姫は病に倒れてしま った。これを見て乳母は、皇子を抱いて河畔に出て、「あなたは神の化身だから、母上の身代わりとなり、父君を呼び戻してください」と祈り、皇子を川の中へ投じたところ、皇子はたちまち白鳥となり、大和めざして飛び立 っていった。

しかし姫は亡くなり、この知らせを聞いた命は、姫のために立派な墓を造り、ねんごろに弔ったところ、白鳥(白鷹)が飛び上がり空中を旋回した。このため尊は、全国に白鳥(白鷹)社を建てさせたという。

この皇子を投げた川が「児捨川」で、皇子の入った袋を投げたことから、その地名が「投嚢→長袋」として現在も残ってい る。

 

これらの白鳥に関わる伝説は、幾つかのバリエーションでこの地に伝えられている。この地の白鳥に対する信仰も、古来から民衆のなかに深く生き続けており、田んぼに落ちている羽毛でさえ、箸などで拾い上げ神社に納めたり、傷ついた白鳥が見つかると医者に治療させ、村人にモミ1俵の飼育料を与え、立ち直るのを見ては近くの沼へ放すという手厚い保護を講じていた。

このような土地柄ゆえに、伊達政宗は息子の忠宗に、「白石領付近では、白鳥をとることまかりならぬ」と、申し渡していた という。

後年、戊辰の役(1868)の折には、この地に進駐してきた官軍の兵士が白鳥を射殺したため、船岡領の柴田家家臣団が大いに憤り、いわゆる「白鳥事件」が起こった。

 

現在、この地に架かる橋「児捨川橋」の名称が、現代の児童虐待を想起させるという理由から「白鳥橋」という名称に変えられた。