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宮城県南三陸町歌津字樋の口

震災前取材

 

田束(たつがね)山の峰続き、南西約1キロに満海山という山がある。気仙沼松崎に生まれた満海上人は、 幼いうちに出家得度し、その名声は極めて高かった。

満海上人は、打ち続く戦乱で、霊場田束山の荒廃を憂い、堂宇伽藍の復興を志し托鉢行脚をした。浄財を集めて戻ると、山ろくの村々には切支丹がはびこり、それは田束山の僧徒にも浸透している有様だった。

満海上人は、仏法が正法であることを説き、切支丹の排除に努めたがかなわず、仏法を守るため、自ずから即身仏となることを決意し、天正年間(1573~1592)入定したと伝えられる。上人の遺骸は弟子達によって安置されるはずだったが、田束山中の寺院の荒廃により未だ土中にある。

満海上人は、伝説上の修験僧として名高く、その伝承は多い。伊達政宗は隻眼であったことから、同じ隻眼の満海上人の生まれ変わりと言われながら育ったという。

また寛永13年(1636)、政宗は城下の山々を探訪し、経ヶ峰の地においてしばらくただずみ、傍にいた奥山大学に死後この辺に墓所を定めるよう杖をたてて指示したという。政宗の死の翌年、二代忠宗によって瑞鳳殿が建てられたが、政宗が杖を立てたところには石室があり、付近の古老たちに聞くと満海上人の墓であったという。