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宮城県大崎市鳴子温泉鬼首字若神子原

震災前取材

永承5年(1050)、陸奥の俘囚、安倍頼良(頼時)の代に鬼首高畑に築いた城跡である。この城は前九年の役(1051~1062)の戦場となったところで、城は標高500mの広大な高原にある。

中世の山城や近世の城とはその趣を異にし、空掘や土塁などの遺構もなく、北は軍沢川、東は荒雄川を見下ろし、西と南は奥羽山脈につづく天険を利用した要害である。

城跡への上り口に、中世の山城の様相が見られるが、それはまったくの自然の地形のようだ。上りきると広々とした高原状の平地になり、雄大な光景が広がり、城域などは定かではない。

勝者側の編纂による陸奥話記には「六箇郡の司に安部頼良なるものあり、是同じき忠良の子なり、父祖忠頼東夷の酋長として威風大いに振い、村落皆服し、六郡に横行す」とある。そして奥六郡を超えて栗原、玉造、賀美郡の山地にまで勢力を拡張した。「貢賦を輸せず、徭役を勤めず、代々驕奢振る舞い・・・・」となり遂に国司藤原登任がこれを討伐することになった。

永承6年(1051)、藤原朝臣登任は数千の兵を発した。出羽の秋田城の介平朝臣重成を前鋒として、藤原登任は後続となりこれを攻めた。安倍頼良は、諸部の俘囚を糾合して、これに対し鬼切部を戦場として戦った。朝廷の軍は各地で敗れ、死者は甚大で、登任は都に逃げ帰った。この鬼切部の戦いを契機にして前九年の役が始まった。

安倍頼良の子の貞任、宗任もこの地を根拠地として国府に従わなかったので、陸奥守鎮守府将軍源頼義は長子義家に征伐させた。義家は花淵山から攻め、矢館の柵を落とし鬼切部城に安倍一族を敗走させたと伝える。