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福島県南相馬市原町区牛越字城下

 

牛越城跡は、原町市役所の西側約1kmの東西に伸びる舌状台地先端部にある。標高はおよそ70m、比高は約40m、東西約300m 南北約280mで、現在主郭跡は牛越浄水場になっている。

現在浄水池がある丘陵の東側に本郭が築かれ、その東側に東館、西側には二ノ郭が配された。本郭、二ノ郭の周囲には帯郭が配置され、二ノ郭の西側には空堀がめぐらされている。さらにその西には、妙見神を祀る妙見館が配置されていた。

この城は、牛越氏の居城だったが、牛越定綱が文安2年(1445)、小高城の相馬高胤に対し謀反を起こした。牛越氏は相馬氏に滅ぼされ、以降は相馬氏の支配下となり、相馬氏の家臣が「城番」として置かれた。天正年間(1573~92)には重臣である長野一露斎などが在城した。

慶長2年(1597)に、相馬義胤は小高の地に村上城を築いたが移転直前に火災で焼失し、それを不吉として牛越城を改修し小高城より移った。しかし、この城に居していた間に、相馬氏には不幸が重なった。

また関ヶ原の戦いにおいては、佐竹氏、岩城氏ともども石田三成と近しかったこともあり、徳川方に与しなかった。このことで、佐竹氏は石高不明のまま秋田に転封、岩城氏と相馬氏は佐竹氏の与力として領地は没収された。佐竹氏からは秋田で一万石を分与する書状が届いたが、相馬密胤(後の利胤)はそれを断り、城を徳川方に明け渡し、徳川の知恵袋の本田正信を通じて徳川に旧領回復を働きかけた。

伊達政宗の働きかけなどもあり(異説あり)、密胤の訴えが聞き届けられ、相馬氏は旧領が安堵された。慶長8年(1603)、牛越城は「凶瑞之城故」ということで廃され、相馬氏は小高城に居を移した。その後、慶長16年(1625)、相馬市中村に新城を築き城下をそこに移した。