福島県伊達市梁川町八幡字堂庭
震災前取材
山岡荘八の「伊達政宗」には以下のような下りがある。
天正10年(1582)、伊達政宗は梁川八幡に初陣の祈願を行い、境内の桜の花の下に駒を繋ぎ休息している折に、伊達の侍大将の立花外記が、政宗に暇をとりたいと申し出た。
そのわけを訪ねると、「我が生涯に春を楽しむ日はかつてなかった。戦で地獄のあけくれで、これに気付くと膝が震える。このような気持ちでは軍勢の士気にさわる」と言う。
政宗は外記の心情を思いうなずくと、矢立をとって軍扇に一首の古歌をしたためた。
春霞 立つを見捨てて 行く雁は
花なき里に すみやならえる
これを形見として外記に与え、自分は本当の春を迎えるために戦をしようとしていることを伝えた。
外記は、我が身のことのみを考えていたことを恥じ自害しようとした。政宗はそれをおしとどめ、「切腹させる程なら、なんで歌などやろうか。死ぬならば共に参れ」と諭し、外記と共に駒を進めていった。