福島県会津若松市東山町大字石山…会津武家屋敷
観光客で賑わう東山の「会津武家屋敷」の敷地の一角に、佐々木只三郎の墓がある。この墓は、昭和50年(1975)、和歌山の紀三井寺から移されたもの。
佐々木只三郎は、天保4年(1833)、会津藩士佐々木源八の三男として生まれた。親戚であった旗本の佐々木矢太夫の養子となる。只三郎は「会津五流」と総称される剣の流派の一つである「精武流」を、藩の師範役羽嶋源太に学び奥義を極めている。「小太刀をとっては日本一」とも言われ、20歳前には、師の羽嶋をも凌いだとも言う。
京都守護職の会津藩主松平容保に従う兄勝任を動かし、清河八郎の策を容れ、文久2年(1862)、上洛する将軍徳川家茂の警固のため浪士組を結成し、それを伴い京都へ上った。しかし清河八郎の真の目的は尊皇攘夷であり、朝廷に建白書を出し浪士組を尊皇攘夷の先鋒とすることを策したが浪士組は分裂した。只三郎は、京都残留を決めた近藤勇らを京都守護職の支配下に置くように取り計らい、文久3年(1863)に江戸へ戻り、麻布で窪田泉太郎などと共に清河八郎を暗殺した。
元治元年(1864)には京都見廻組の与頭となり、見廻組を率い、新撰組と共に尊攘派志士から恐れられた。蛤御門の変にも出動し、慶応3年(1867)、京都近江屋で土佐藩の坂本龍馬、中岡慎太郎を暗殺したとされる。
この坂本竜馬暗殺には諸説あるが、この京都見廻組説がいわば定説になっている。坂本竜馬が動いた薩長同盟により、幕府の長州征伐は失敗に終わり、結果として薩摩、長州の討幕派の勢いが増していた。このような中で、幕府の中に坂本竜馬の暗殺を企てるものがいたとしても不思議ではないし、その実行は、京都見廻組に命じられると考えるのが妥当だろう。
大正時代になってから、元見廻組隊士だった今井信郎、渡辺篤の口述で、佐々木只三郎らが実行犯であると証言している。これによれば、只三郎が見廻組から桂早之助、今井信郎、渡辺篤らの精鋭を選び、近江屋を襲撃した。竜馬に致命傷を与えたのは桂早之助とされ、その目的を達した。
勝海舟も幕府上層部の指示があったと推測しているが、この今井や渡辺の口述には、刺客の人数構成、供述による斬った箇所と実際の傷の箇所の相違、現場に置き忘れた鞘の持ち主などで食い違う部分もあり、様々な異説もある。またいち早く現場に駆けつけ中岡慎太郎を見舞った土佐藩の谷干城は、この京都見廻組説を信じてはいなかったという。
その後只三郎は、戊辰戦争が勃発すると幕府軍の一員として鳥羽伏見の戦いに参戦、腰に銃弾を受けて重傷を負い、紀州に敗走中紀三井寺で死去した。この鳥羽伏見の戦いで、甲冑を脱ぎ半裸になり斬り込みをかけていた只三郎は、近くの酒屋に飛び込んで酒を出させ、代金代わりに襖にこう、書き付けた。
世はなべて うつろふ霜に ときめきぬ
こころづくしの しら菊のはな
これが事実上の辞世になったという。享年35歳だった。