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この地の「唐糸御前伝説」は、鎌倉の五代執権・北条時頼に愛された女性「唐糸御前」の悲しい伝説である。

唐糸御前は、鎌倉の執権・北条時頼に仕える心根の優しい才色兼備の女性だった。時頼の寵愛を一身に受けるようになると、周囲から妬まれるようになった。御前は、周囲の悪意ある妬みに耐えられず、時頼から暇をもらい、鎌倉を去り、生まれ故郷の藤崎に帰ることを願い出た。時頼は、 唐糸と離れがたく、それでも御前のたっての願いに、ついには再会を約し、従者をつけて落ち延びさせた。

唐糸ら一行は、海路十三湊に着き、この藤崎町の地に戻った。やがて北条時頼は忙しい政務を離れ出家し、最明寺入道と名を改め諸国行脚に出ることになった。時頼は、諸国を回る中で、津軽の藤崎にいる唐糸御前を訪ねることにしていた。

御前は、時頼が津軽にもやってくることを知り、「落ちぶれて、昔の容色も失われてしまった今、どうしてお会いできましょうか」と悲しみ、池に身を投げてしまった。やがてこの地に来た時頼は、村人から唐糸御前のことを聞き、大いに悲しみ、ねんごろに菩提を弔った。その悲しみは深く、鎌倉への帰途7日毎に寺を建立したと云う。


この津軽の藤崎町に伝えられる「唐糸御前伝説」は、北条時頼の廻国伝説とともに、史実として確実であるとは言い難い。しかし、この津軽の地には、この唐糸御前の従者だったとする清藤家が今もその伝説を伝えている。

清藤家は、平川市猿賀にある盛美園の地にある旧家である。その初代は、清藤次郎盛秀とし、盛秀は、執権北条時頼の家臣であった。

唐糸御前が、生まれ故郷の藤崎に戻ることになったとき、時頼は唐糸との再会を約し、信頼する盛秀に託した。しかしその唐糸は、 時頼が津軽にくるとの風聞に接し、容色の衰えを苦にして池に身を投じて自殺してしまった。盛秀は主命を果たせなかった責任を感じ、鎌倉に帰らず、猿賀の地に永住したと云う。

清藤家は、歴代農業を営みながら、また広い地域に亘って商売を営んでいた。 またこの地に一定の政治的な基盤を築いていたようで、田舎館城主の千徳氏とも親交があり、津軽為信が田舎館城を攻めた際には、当時の当主の清左衛門は和睦の使者に立ったりもした。

清藤家は江戸時代にはこの地の大庄屋を勤めていたが、大飢饉の際には蔵を開き米を施して村民の窮状を救い、その後も勤労を奨め、土地を開墾し飢餓に備えて米を貯え、産業を振興するなどした。 明治維新の際には、士族授産のため田地10町歩を残して没収されたが、当時の当主の清藤盛美は、青森商業銀行、尾上銀行創立に参画しやがて尾上銀行頭取になり、今に続く津軽の経済に大きな影響を与えた。

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